ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Michael Chabon の “The Amazing Adventures of Kavalier & Clay”(2)

 Jeffrey Eugenides の "Middlesex"(2002)をボチボチ読んでいる。ご存じ2003年のピューリツァー賞受賞作だ。孫の世話(けっこう疲れる)その他、なにかと雑用が入り思うように進まないが、なかなか面白い。
 同書も2001年に同賞を受賞した表題作(2000)も、ぼくにとっては「いまさら読んだことないとは言えないで賞」の有力候補作。何度か書いたが、ぼくが英語で海外の純文学を本格的に読みはじめたのは2000年の夏から。それも当初は19, 20世紀の名作が多く、現代文学は二の次だった。ブッカー賞という文学賞があるのを知ったのも同年の秋くらい。たしか新宿の紀伊國屋の店頭だったような気がする。
 というわけで、ぼくの場合、積ん読のひとつの山を形成しているのが2000年代前半の作品群。とりわけ、当時の話題作かつ大作というパターンが多い。よく調べずに注文し、届いた本を見てその分厚さにゲンナリしたり、それに懲りて注文前、ページ数を確認したところで戦意喪失したり。表題作は後者だった。
 それでも遅ればせながら、意を決して取り寄せたのが2012年の増補版。当然さらにボリュームを増していたので即積ん読となり、恥ずかしながら今回やっと読みおえた。本編に追加された Odds & Ends のうち、最初の piece を 'Why Are You Still Reading? The Book's Over. Go Play Outside' と題するなど、Chabon 自身、本書の長さを多少気にしているようなフシもある。
 1939年、ユダヤ系の少年 Joe Kavalier がプラハを脱出して、ニューヨークにたどり着くまでの導入部はまずまず面白い。... a Japanese offical who would grant rights of transit via the Empire of Japan to any Jew .... への言及があることにニンマリ(p.65)。
 以後、どんどんテンションが上がり、万博に参加したダリをめぐるドタバタ劇など、各章のおわりで事件発生を予感させる構成がうまく、どのエピソードも目が離せなくなる。最大の山場はたぶん、ユダヤ系市民のパーティー会場における「ジョーと爆弾犯の攻防」だろう。緊張感のすごさもさることながら、「親ナチ男の妄想と現実が入り乱れ、メタフィクションかと思わせる」くだりにブッ飛んでしまった。
 問題があるとすれば終盤か。レビューでも述べたように「後日談の色合いが濃くなり、さすがにアメージングとはいえない」。そのあたりからぼくはだんだん眠くなり、増補版の増補部分でさらにペースダウン。'The Return of the Amazing Cavalieri' だけ面白かった。最後、Chabon 自身の Reader's Guide は無視したので、さぞトンチンカンなレビューになったものと思う。
 本書を読了してから、もう2週間以上もたってしまった。振り返ると、Michael Chabon は少なくともここでは、いつまでも少年の夢を持ちつづけている作家のようだ。アメリカン・コミックの黄金時代を題材にした作品を読むのは初めてだったが、当時の世相を反映している点はもちろん、決して懐古趣味ではないのに純粋無垢な少年の夢を感じさせるところがおみごと。とはいえ、大昔ロスで食べた、一瞬ワラジかと思ったような特大ビフテキみたいで、「いささか胃にもたれ」てしまったのも事実。もっと馬力のあるうちに読んでおくべきでした。

(下は、きのう届いたCD。期待どおり、とてもゴキゲンだ) 

Sax Across America

Sax Across America

  • アーティスト:Abbott, Bruce
  • 発売日: 2003/05/13
  • メディア: CD
 

 

Jonathan Franzen の “The Corrections”(1)

 2001年の全米図書賞受賞作、Jonathan Franzen の "The Corrections" を読了。本書はまた2002年のピューリツァー賞最終候補作でもある。さっそくレビューを書いておこう。 

The Corrections (English Edition)

The Corrections (English Edition)

 

[☆☆☆☆] 俗に「馬鹿は死ななきゃ治らない」という。が、よかれ悪しかれ、持って生まれた性格の矯正や、しだいに身についた価値観の修正ほど厄介なものはない。そして性格・価値観は十人十色。このおよそ軌道修正しがたい、それぞれ考えの異なる人間の集団の最小単位が、婚姻や血縁で結びついた家族である。本書は、こうした家族ならではの必然的な対立を知的なユーモアあふれる文体で活写。クリスマスを一家全員で過ごすべきか否か、といった些末な問題がこじれにこじれる場面では、その些末さゆえに不協和音のおもしろさが増幅、ひるがえって些事の解決もまた人生の現実なのだと思い知らされる。一方、パーキンソン病を患う夫が妻の目前でクルーズ船から海に転落したり、他人の助言をかたくなに拒否したりするエピソードでは、介護の問題がデフォルメに近いかたちでコミカルに描かれ、かえってその深刻さが痛切に伝わってくる。このとき、ことの大小にかかわらず奏功しているのが、やはりデフォルメ化されたキャラクターづくりだ。上の夫妻もその子どもたちも、周囲の主な脇役陣もみな、リアルながら常軌を逸した存在であり、レズがらみの三角関係など奇想天外な設定が連続。呆気にとられるうちに意外な真実が浮かびあがり、各人の性格や価値観の相違に発するバトルを通じて、人生の軌道修正のむずかしさ、立場の異なる相手を認める寛容のむずかしさが浮き彫りにされる。こうした困難に充ち満ちた人生の象徴が本書のドタバタ悲喜劇なのである。

Halldór Laxness の “Independent People”(2)

 Halldór Laxness というアイルランドの作家がいることを知ったのは、過去記事を検索すると2009年の5月。その当時、米アマゾンのベストセラー・リストになぜか本書がちょくちょく顔を出していたようだ。 

 ベストセラーなんて、いまでこそ久しくチェックしたことがないけれど、当時は旧作の積ん読の山を気にしつつ、新作、話題作を熱心にリアルタイムで追いかけていたおぼえがある。定評のある作品に取り組むのは、ひとの猿マネをしているようで面白くない。それより自分がいち早く、新たに名作を発見したかのような錯覚にひたりたい、というへそ曲がりゆえの読書傾向だ。
 そんなわけで、ろくに調べもせず本書を買い求めたところ、なんと Laxness は1955年にノーベル賞を受賞した大作家であることが判明。邦訳も出ている(1957年『独立の民』)。そこで一気に興味が薄れ、分厚い本ということもあって、以来、積ん読の高峰のひとつになってしまった。
 それが今回、やっと登頂する気になったのは〈書棚つながり〉。本書の前に読んだ Yourcenar, Marguerite の隣りの棚に、アルファベット順で「L-P」の作家のものが並んでいる。それをながめているうちに、ふと思い立った。
 読後に調べてみたが、邦訳はあまり話題にならなかったのか、上の一回きりのようだ。ほかの作品も1972年を最後に翻訳されていない。わが国では Laxness はもはや忘れられた作家といってもいいだろう。
 しかしこれ、埋もれたままにしておくのは、ちょっともったいない作品である。「それぞれのエピソードに強烈な迫力や魅力がありストーリーテリングも巧妙で、思わず引きこまれる」からだが、レビューでふれなかった点を捕足すると、会話がとても面白い。主人公 Bjartur は独立の民を自負するだけあって、だれかに突っ込まれても、かならず切り返す。その相手もやはりみごとに切り返し、こうした repartee は小説の華。俄然、得点が高くなる。
 その自負心がまたすごい。羊飼いの Bjartur にとって農場経営が自由と独立を守る「世界戦争」であることはレビューで述べたとおりだが、彼は羊にこだわり、牛には見向きもしない。牛乳のおかげで病弱の妻が体力を回復しても意に介さない。それどころか、とそこから先のネタを割るのは控えるけれど、とにかく自分の原則を墨守する頑固さはハンパではない。そんな独立精神がアイルランドの国民性であり、それがいまなお健在なのだとしたら彼の国は安泰だ、とそう思わずにはいられなかった。
 ひるがえって、という日本の話はやめておく。それより、本書を読んでいて気になったことがある。上のように自由と独立の問題が扱われる文脈である。それは「精神の自由より物質の自由に重きをおく傾向」を暗示しているのではないか。
 そこで思い出したのが、ラッセルを批判した福田恆存の『自由と平和』。「人間に生れる自由、生れない自由はない。(中略)人間は在つても無くてもよい。偶然に存らしめられたのであり、偶然に無くさせられるだけの話である。その点、人間は他の生物や物質と何の相違も無いのであるが、ただ人間は自己がさういふものである事を自覚する事が出来る。その自覚の働きが精神であり、その働きによつて、人間は精神と物質とに分裂した二重の存在になる。同時にその事によつて、人間は自由になる。あるいは自由の意識を所有する。それは言換へれば、人間には自由が無いといふ事の自覚に過ぎず、その自覚に徹した時にのみ、人間は人間としての自由を獲得するといふ事である。本来の意味の自由とはさういふものなのである。」
 Laxness は共産主義つまり唯物論に傾いたこともあるそうだが、物質の自由、ひいては政治的自由しか頭にないと、福田の言う自由の二重性を見落とすことになる。と、そんなことを考えているうちにレビューの書き出しを思いついた。お気づきだったでしょうが、福田のパクリである。

(下は、きょう届いたCD。中古だが、すばらしいです) 

バッハ:ブランデンブルク協奏曲

バッハ:ブランデンブルク協奏曲

 

 

Michael Chabon の “The Amazing Adventures of Kavalier & Clay”(1)

 数日前、Michael Chabon の "The Amazing Adventures of Kavalier & Clay"(2000)を読みおえたのだが、体調その他、諸般の事情でブログを更新する時間がなかなか取れなかった。ご存じ2001年のピューリツァー賞受賞作である。はて、どんなレビューになりますやら。 

[☆☆☆☆] 自分がほんとうにやりたいことをやり遂げる。夢の実現である。だが夢の前にはいつも現実が立ちはだかっている。その現実と闘い現実を乗りこえようとするとき、冒険がはじまる。本書のふたりの主人公ジョーとクレイが挑んだ冒険は1939年から1954年まで。第二次大戦前後であり、アメリカン・コミックの黄金時代ともほぼ重なる。ゆえにコミックと戦争が彼らの冒険の二大要素だが、その大半は脱出劇である。ユダヤ系のふたりが創作したコミックのスーパーヒーローはナチス・ドイツと戦う「エスケーピスト」。自由と解放をテーマにしたもので、作画担当のジョー自身、プラハからニューヨークにやってきた難民であり、脱出王フーディーニに心酔し奇術をおこなう。ショーの最中、ユダヤ系市民のパーティ会場で起きた爆弾騒ぎでは、親ナチ男の妄想と現実がいり乱れ、メタフィクションかと思わせるジョーと爆弾犯の攻防がまさにアメージング。ジョーが南極の米軍基地で越冬するサバイバル物語も壮絶。それほど華々しくはないが、クレイとコミック出版社の社長が利益配分をめぐって争う寸劇もサスペンスフルでおもしろい。クレイのほうは搾取から、またコミックを不当に過小評価し有害図書と断じる偏見から逃れようとしたのだ。そのあたり、同性愛の扱いもふくめ、欺瞞と浅薄なモラリズムが横行した当時の世相をよく反映している。この禁断の物語に加え、ジョーとその恋人や息子をめぐる愛情物語も冒険譚のひとつである。紹介は最後になったが、じつは愛、とりわけ家族愛は当初から活劇の源だったのだ。終盤、エンパイア・ステート・ビルの展望台からの脱出劇終了と同時に後日談の色あいが濃くなり、さすがにアメージングとはいえないが、冒険はいつかはおわり、夢もいつかは消えるもの。尻すぼみというより、コミック黄金時代の終焉とみごとに呼応した結末である。重厚壮大にして繊細緻密、いささか胃にもたれる極上のビフテキのような超大作冒険巨篇である。

Marguerite Yourcenar の “Memoirs of Hadrian”(2)

 "To the Lighthouse" のつぎに表題作を読もうと思ったのも、きっかけはほんの偶然だった。洋書は著者のアルファベット順に書棚に並べているので、Woolf, Virginia のすぐ隣りが Yourcenar, Marguerite だからだ。"Oriental Tales"(1938)も気になったけど、Yourcenar の代表作といえばやっぱり "Memoirs of Hadrian" だろう。
 Hadrian(ハドリアヌス)は現在のイギリスにある例の長城で有名だが、それを思い出したのはなんと本書を読みはじめてから。開巻、My dear Mark とある、その Mark が哲人皇マルクス・アウレリウスを指しているとわかったのも、かなり読み進んでからだ。そんなわけで、すぐにひとつの疑問が浮かんだ。なぜ Hadrian なのだろう。
 巻末の Reflections on the Composition of Memoirs of Hadrian の冒頭にその答えが載っている。In turning the pages of a volume of Flaubert's correspondence much read and heavily underscored by me about the year 1927 I came again upon this admirable sentence: 'Just when the gods had ceased to be, and the Christ had not yet come, there was a unique moment in history, between Cicero and Marcus Aurelius, when man stood alone.'(p.269)
 つまり、大げさにいえば、本書は Yourcenar にとって歴史の空白を埋める作業だったわけだ。ぼくも実際、ハドリアヌスについてネットで検索したところ、長城の話を除けば、その生涯については、へえ、そんな皇帝だったんだ、と初めて知ったことばかり。少年愛でも有名だったらしいけど、それもぼくは初耳だった。
 と、そんな予備知識皆無に近い一般読者の立場からすれば、本書はあまり面白くない。調べるとほぼ史実どおりらしいのだが、その史実からしてフィクションの素材としてはパッとしない。詳細は省くが、要するに地味なのだ。逆にいえば、同じくローマ皇帝を扱ったシェイクスピア劇のような派手さがない。しかしこれは仕方がない。「シーザーにたいするブルータスやアントニーのような強烈な個性をはなつ敵対者」が実際、ハドリアヌスの時代には存在しなかったようなのだから。
 一方、本書が刊行されたのが1951年ということで、第二次大戦を思わせる記述がないか探ってみたが、みごとに空振り。上の Reflections にもこうしるされている。Keep in mind that everything here is thrown out of perspective by what is left unsaid: ..... There is nothing, for example, .... of the tremendous repercussion of external events and the perpetual testing of oneself upon the touchstone of fact.(p.272)
 結局、これは一面、ごくまともな歴史小説であり、「ユルスナールはあくまでハドリアヌスに深く共感しながら、その実像に迫ろうとしている」。いい換えれば、ぼくのようにハドリアヌスにさほど関心のなかった読者には、けっこうキツい作品である。
 では、「ハドリアヌスの内省録」としてはどうか。マルクス・アウレリウスの『自省録』と比較したいところだが、あちらは大昔、翻訳で拾い読みしただけでほとんど記憶にのこっていない。ただ較べるまでもなく、本書はパンチ不足。Strength was the basis, discipline without which there is no beauty, and firmness without which there is no justice. .... Strength and justice together were but one instrument, well tuned, in the hands of the Muses.(p.120)といったくだりを読むと、もっと突っ込んでくれ、といいたくなる。ソクラテスとの対話で「(支配者にとって)正義ほどに醜く害になるものが何かあるだろうか」などと述べるカリクレスほどに深く(藤沢令夫訳『ゴルギアス』)。 (下にアップしたのは新訳のようです)。

ゴルギアス (岩波文庫)

ゴルギアス (岩波文庫)

 

  本書が刊行当時絶賛されたのは、Wiki によると、どうやら歴史小説と(内省をふくむ)心理小説の融合という点にあるようだ。その融合が文学史上初めての試みだったのかどうか、不勉強につき、ぼくにはわからない。ただ読んでいて、Hadrian の心理が描かれることにまったく違和感はおぼえなかった。現代のヘンテコな小説を読みすぎているせいかもしれないけれど、少なくとも、本書はやはり「歴史心理小説」というジャンルの秀作として評価すべきだという気がする。史上初ならなおさらだ。どうでしょうか。

Halldór Laxness の “Independent People”(1)

 きのう、アイスランドノーベル賞作家、Halldór Laxness の "Independent People" を読了。アイスランド語原書の第一部は1934年刊、第二部は1935年刊。英訳合冊版は1946年刊で、Laxness は1955年にノーベル賞を受賞。さっそくレビューを書いておこう。 

[☆☆☆☆★] 人間に自由など、独立などありはしない。あるのはただ、自由であろうとする自由、独立不羈であろうとする独立心だけだ。その不自由を、隷属を真に自覚したひとがはじめて自由人であり「独立の民」なのだ。と、さような自由と独立の二重性をラックスネスが意識していたかどうかは怪しい。が、少なくともここには自由の限界に挑みつづけた男の物語があり、独立の民たらんとするその男ビャルトゥルの悪戦苦闘ぶりに、ラックスネスがアイスランド近現代史、さらには千年の歴史を重ねあわせていることは明らかである。国民文学の傑作たるゆえんである。第一次大戦前後、羊飼いの農夫ビャルトゥルの前に立ちはだかったのは、美しいが厳しい自然、飢饉、貧困、近代化の波、大戦によるバブル経済とその崩壊、資本主義の原理、社会主義の嵐、そしてなにより敵対する人びと。地主や豪農はもちろん、時には家族も敵となる点が特筆ものである。夫の方針に異を唱えて凄絶な死をとげるふたりの妻、父親を愛しながらも私生児を宿す娘、空想癖が高じてアメリカに渡る三男、同じく渡米を夢見ながら地主の娘と恋に落ちる次男。それぞれのエピソードに強烈な迫力や魅力がありストーリーテリングも巧妙で、思わず引きこまれる。ビャルトゥルにとって農場経営はアイスランドの歴史と伝統、自由と独立を守るための「世界戦争」であり、家族愛は二の次三の次、恋愛感情さえも斬り捨てる非情さには驚くばかり。反面、彼はおのが限界を自覚し、世界を支配する力を直観。良心の呵責にさいなまれ、心底では家族と結びついている。こうした孤高のヒーローが上の戦争だけでなく、実際の世界大戦の渦に巻きこまれ、挫折を余儀なくされるところにアイスランド近代の宿命がある。精神の自由より物質の自由に重きをおく傾向が認められ、また後半、尻切れトンボの逸話がつづく瑕瑾もあるものの、現代人の精読に耐える名作であることに疑いの余地はない。

Virginia Woolf の “To the Lighthouse”(2)

 Virginia Woolf のことはすっかり忘れていた。書棚に何冊か作品が飾ってあるだけで、いままで手に取ったこともほとんどなかった。
 それどころか、ぼくのまわりで Woolf が話題にのぼることは、学生時代からいちどもなかったような気がする。先生方、先輩、友人、同僚、だれからも話を聞いたおぼえがない。ちょっぴりかじった英文学史の本でぜったい名前を見かけたはずなのに、その記憶すらない。つまり、ぼくにとって Virginia Woolf は昔からずっと忘れられた存在だったのである。
 それが去年の11月、Brandon Taylor の "Real Life" を読んでいたら、"To the Lightghouse" の話が出てきた。あのブッカー賞最終候補作の登場人物は生化学専門の大学院生がほとんどだったが、そのボーイフレンドのひとりが文学好きで Woolf を研究している、という設定だったような気がする。もしたまたま "Real Life" を読まなかったら、Woolf の本はいまだにホコリをかぶったままだったにちがいない。
 というわけで、この "To the Lighthouse" の舞台がスカイ島だということもまったく知らなかった。スカイ島! スコットランドにあるこの島の写真を初めて見たとき、世界にはこんな絶景があるのかと、思わず見とれてしまったものだ。(下の写真は無料サイトから借用したつもりですが、もし著作権のことで問題があるようならお知らせください)。

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 こんな景色を毎日ながめていたら、いや一瞬目にしただけでも、本書の Mrs. Ramsay と同じく、making of the moment something permanent(p.176)という衝動にかられるかもしれない。このくだりについて巻末の注には、this concept [is] very important for Woolf とあり、没後に出版された日記 "Moments of Being" への言及もある。
 こうした「永遠の瞬間」を人間の意識の流れのなかから汲み取り紙上に定着させる試み、それが "To the Lighthouse" ではないだろうか。
 そう思ったのと同時に、ぼくの個人的な体験だけでなく、もしほんとうに Woolf が忘れられた作家であるのだとしたら、この moments of being という点に理由があるのかもしれない、とも思った。ひょっとして、彼女の作品には moments of being しかないのかもしれない。もしそうだとしたら、やはり忘れられても仕方がないのではあるまいか。
 実際、Mrs. Ramsay は .... there is no reason, order, justice: but suffering, death, the poor.(p.71)と述懐しているのだけれど、このドキっとするような言葉に直結する劇的な事件が前後に、いやどこにも見当たらない。それは Mrs. Ramsay が直観した the essence sucked out of life(p.131)だったとしか思えないのだ。
 その直観は要するに結論であり、結論を導くプロセスとしての moments of being のつらなりが欲しい。それがない以上、「忘れられても仕方がない」。
 つまり、「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」というわけだけど、これはもちろん "To the Lighthouse" を読んだだけの感想。代表作といわれる "Mrs Dalloway"(1925)を読むまで pending にしておこう。