ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Antonio Tabucchi の “Requiem: A Hallucination”(1)

 きのう、イタリアの作家 Antonio Tabucchi(1943 - 2012)の "Requiem: A Hallucination"(原作1991, 英訳1994)を読了。原語はポルトガル語である。さっそくレビューを書いておこう。

Requiem

Requiem

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[☆☆☆★★★] 名づけて「リスボン幻想曲」。リスボン近郊の村で休日を過ごしていた男が、数年前に物故した著名な詩人から連絡を受ける。このシュールな状況を皮切りに、男は深夜、リスボンの波止場で実際に詩人と面会するまでの半日間、夢と幻想、現実が渾然一体となったマジックリアリズムの世界を彷徨。出会うのは、名作『不安の書』の登場人物や、男と三角関係にあった亡き友人、青年時代の亡父、男の手相に幻覚を読みとるジプシーの老女、悔恨にも似た心の奇病について語る画家、男がフィクションの現実化をテーマに物語を書いていた時代にかかわる女、などなど。どの人物もユニークな存在感があり、どのエピソードもリアルでシュールな様相を帯び、男は虚構と現実の境界線を往来しながら少年時代からの人生を追体験する。破天荒な設定だが、レシピが紹介されるカクテルやポルトガル料理にも似た、味わいぶかい奇譚集である。しかもそれが単なる奇想ではなく、「文学とは不安を与えるもの」という、男と上の詩人がともに達した文学観に裏打ちされているだけに奥が深い。その詩人とは、上記『不安の書』を著したポルトガルの国民的作家フェルナンド・ペソア。本書はペソアに捧げられたレクイエムでありオマージュである。さらに「前書き」によれば、これは著者タブッキが帰化したポルトガル、およびポルトガルの人びとへのオマージュなのである。

Antonio Tabucchi の “The Edge of the Horizon”(1)

 イタリアの作家 Antonio Tabucchi(1943 - 2012)の "The Edge of the Horizon"(原作1986, 英訳1990)を読了。さっそくレビューを書いておこう。

[☆☆☆★] 目に映る水平線は、見る者が動くたびに移動し、時がたてば闇のなかへと消えていく。同様に、アイデンティティはつねに流動的で、ついに把握しえぬものかもしれない。書中のことばと、スピノザにふれた著者の「あとがき」を結んでふりかえると、そんなアイデンティティ不可知論に駆られたくなる。モルグに通称カルロという若者の射殺体が搬入され、事件に関心をもったモルグの職員スピノが、カルロの人物像と死にいたる経緯を解明しようと調査に乗りだす。このミステリ仕立ての展開はかなりおもしろい。カルロの所持していた写真から、スピノ自身の少年時代の記憶がよみがえる、という設定もいい。彼の自分さがしにつながりそうだからだ。ところが、調査はやがて行きづまり、スピノ接触しようとした情報提供者もあらわれず、真相はすべて藪のなか。カルロとスピノの接点を匂わせる序盤の記述は結局思わせぶりにすぎず、スピノの自分さがしも挫折。ミステリとしては中途半端な仕上がりだが、アイデンティティとは「水平線のはずれ」にあり、「つねに流動的で、ついに把握しえぬもの」という不可知論からすれば、中途半端はむしろ当然の帰結ともいえよう。

Antonio Tabucchi の “Indian Nocturne”(1)

 イタリアの作家 Antonio Tabucchi(1943 - 2012)の "Indian Nocturne"(原作1984, 英訳1988)を読了。さっそくレビューを書いておこう。

[☆☆☆★★] まさに「インド夜想曲」だ。ボンベイからゴアの海辺の町まで十二日間の旅で、男は不眠症にでもかかったように夕刻から夜半、せいぜい早朝にかけて行動。日中のできごとはほとんどカットされている。このタブッキ版『十二夜』で男は失踪した友人の行方を追い、さまざまな人びとと出会う。どの顔にも過去の影、不幸の影があり、背景として貧困やカースト制などインドの暗い現実も浮上。いきおいメランコリックな調べが流れる。やがて「悲しい笑顔」の男は「おれはだれだ」という疑問に駆られ、旅の目的もじつは自分さがしであったことに気づく。定番のテーマだが、なにしろ異国情緒たっぷりのトラヴェローグで、主人公ともども、夢のなかで夜のインドの大平原をさまよっているような気分になる。男が友人の立場から全篇を要約する幕切れは、フィクションが現実を先取りしたメタフィクションの味わい。感傷的でない憂愁に彩られた佳篇である。

William Faulkner の “Requiem for a Nun” (1)

 William Faulkner の "Requiem for a Nun"(1951)を読了。周知のとおり "Sanctuary"(1931)の続編で、前作から8年後の物語という設定になっている。さっそくレビューを書いておこう。(「なにから読むか、フォークナー」に転載)。

[☆☆☆★★] 罪と神の救いをテーマにした三幕の道徳劇。それぞれの開幕前に舞台説明があり、南北戦争前から第二次大戦後まで、進歩と変化の連続した歴史のなかで不変のもの、いわば歴史の定点として、ミシシッピ州の架空の町ヨクナパトーファ郡ジェファーソンが紹介される。これに呼応して本篇でも、「過去はけっして死なない。過ぎ去ってさえいない」という書中の有名なことばが示すとおり、永遠に解決することのできない道徳的難問が提出される。罪は苦しむことで償えるのか。罪を赦し、赦しを受け容れることは可能か。もし償いも、赦しも、赦しの許容もありえないのなら、そこには苦しみしか残らなくなるが、そのとき苦しむ者に神の救いはあるのか。前作『サンクチュアリ』の息づまるような劇的展開は影をひそめ、ここでは女主人公テンプルのみずから犯した罪をめぐる煩悶懊悩が、劇形式により単純化されてはいるものの重苦しく語られる。テンプルの罪へのこだわりはキリスト教文化圏以外の読者には異様とも思えるほどだが、さほどにおのが罪の深さと救いのなさに絶望するということは、とりもなおさず、同じく上の読者にはうかがい知れぬ、超絶的なまでに崇高な善への希求があるということでもあろう。本書は、そうした二律背反への鎮魂歌として、矛盾に満ちた人間性を深く洞察したフォークナーの思想を物語る作品である。

Orhan Pamuk の “The Red-Haired Woman”(2)

(1)の結びで挙げたとおり、ぼくがいままで読んだ Orhan Pamuk の作品は7冊だが、そのうち1冊だけ再読するとしたら、やはり "My Name Is Red"(1998 ☆☆☆☆★)だろう。

 ひとつには、同書がとても面白いミステリでもあるからだ。ふたつめに、犯人がだれか忘れてしまった。かなり昂奮しながら読んだおぼえがあるし、上のレビューを読みかえすと、ミステリ以外の要素でどこがすぐれているのかも記憶がよみがえってくるのだけど、どうにも肝腎の犯人が浮かんでこない。これは気になる。
 つぎにもういちど読んでみたいのは、おそらく細部を思い出すまでだろうが、"The Museum of Innocence"(2008 ☆☆☆☆)。

 これまた物語性にすぐれ、メロドラマとしてもよく出来ていた。ミステリもメロドラマも、工夫ひとつでエンタメになったり純文学になったりする。どちらがより高級か、ではなく、どんな工夫のちがいがあるか、作者のスタンスにどんな相違があるか、という点がポイントだろうとぼくは思っている。そうしたエンタメと純文学の境界線を知るうえでも、"My Name Is Red" と "The Museum of Innocence" は興味ぶかいテクストである。
 3番目のオススメは表題作。

 ノーベル文学賞には、過去の輝かしい業績を顕彰するという意味あいがあり、受賞時にはもう電池が切れていたのでは、と思えるような作家も多い。その点、Orhan Pamuk は上の "The Museum of Innocence" が受賞第一作だったのだから、たいしたものだ。
 この "The Red-Haired Woman" もなかなかいい(2016 ☆☆☆★★★)。さすがに上の2作ほどのスケールには欠けるものの、それでも「トルコの政治史や、現代人のアイデンティティが話題になったり、登場人物が本書の作者となるメタフィクションの技法が導入されたりと、いかにもパムクらしい作品に仕上がっている」。ぼくのように旧作から先に読んでいった場合ほど、「いかにもパムクらしい」と思えることだろう。
 あとの4作は、文学的には高く評価できても、再読となると、ちょっとしんどい。"Snow" はどうした、という声も聞こえてきそうだが(2002 ☆☆☆☆)、あれは読んだばっかり。読みおわったとたん、また読みたくなるほどの強烈な衝撃は受けなかった。
 もちろん "The Red-Haired Woman" も読んだばかりなのだけど、こちらのほうが気軽に読める内容なので、物語としてのベスト3にふくめることにした。
   未読の作品で気になるのは "Silent House"(1983)だが、内容紹介を斜め読みしたかぎり、ちょっとしんどそう。
 それより、今年の10月に英訳版が刊行予定の最新作 "Nights of Plague"(2021)に注目したい。Steeped in history and rife with suspense, Nights of Plague is an epic story set more than one hundred years ago, with themes that feel remarkably contemporary. とのこと。タイトルからして、コロナの時代にふさわしい本かもしれない。

 

William Faulkner の “Flags in the Dust”(1)

 きのう、William Faulkner の "Flags in the Dust"(1929)を読了。以下のレビューは、「なにから読むか、フォークナー」にも転載しました。

[☆☆☆★★★] ミシシッピ州の架空の町ヨクナパトーファ郡ジェファーソンを舞台とする、ヨクナパトーファ・サーガの第一作『サートリス』の完全版。のちのサーガでもおなじみのサートリス家の人びとをめぐる物語を中心に、『サンクチュアリ』のホレスや、『館』のバイロンなどが主役のエピソードもちりばめられ、総じて短編集としても読める長編となっている。第一次大戦直後に復員したベイヤード・サートリスは、ふたごの兄ジョンの戦死に心を痛め、無謀運転をくりかえすなど自暴自棄におちいる。戦争のトラウマという定番のテーマの先駆けで、重大事件のもようを間接的に伝える手法が巧妙。ベイヤードと、彼の妻となる女性、ホレスの妹ナーシッサとのふれあいにおける、しみじみとした味わいも心にのこる。一方、ベイヤードの祖父と、その友人、伯母、黒人の召使いたちとの活発なやりとりからは、富裕な旧家サートリス家の歴史を背景に南北戦争の影や、新旧両世代の対立、人種差別の現実などがコミカルな笑い話もまじえて浮上。また、ベイヤードと同じく復員したホレスが秘密の情事を重ねたり、ベイヤードの祖父が経営する銀行の行員バイロンがナーシッサにストーカー行為を働いたりと、サートリス家周辺の物語では鬱屈した男女の心理が、副筋とは思えないほど情感たっぷりに描かれる。やや荒削りで、まとまりに欠ける憾みもあるものの、百花繚乱、多彩なトピックが織りなすファミリー・サーガに脱帽。フォークナー渾身の力作である。

Orhan Pamuk の “Snow”(3)と既読作品一覧

 今回のウクライナ侵攻では二次的な問題かもしれないが、トルコってフシギな国だな、と思ったひとも多いのではないか。実効性のほどはさておき、トルコがロシアとウクライナの仲介役となり、戦争当事国の外相会談がトルコでひらかれた。うん? なぜトルコなのか。
 聞けばトルコはNATO加盟国でありながら、ロシアとの軍事協力を深め、ロシア製の地対空ミサイルも導入している。一方、ウクライナの最前線では、トルコ製の軍用ドローンがロシア軍に打撃を与えているそうだ。なんじゃこりゃ?
 そんな二股外交のゆえんは、地図を見れば直感的にわかる。黒海をはさんで、トルコの対岸の左右両サイドにロシアとウクライナが位置しているからだ。わるくいえば分断と分裂、よくいえばバランスが、国家としてのアイデンティティや国民性と大きくかかわっているのでは、と地図を眺めているうちに思えてくる。
 というのは牽強付会かもしれないけれど、表題作以前に読んだ Orhan Pamuk の作品では、もっぱらイスタンブールが舞台となっていた。イスタンブールこそはアジアとヨーロッパが衝突ないし融合する街、分断とバランスが渾然一体となった街だろう。これにローマ帝国以来、今日までの統一と分裂の歴史を重ねあわせると、なるほど、トルコってフシギな国だな、フシギが当たり前の国なんだな、という気がする。
 さて "Snow" の舞台はイスタンブールではなく、トルコ北東部の街カルス(Kars)。地図で見ると、ほんとにトルコの北の先っぽのほうで、なぜ Pamuk はこんな遠隔の地を舞台に選んだのか。
 この疑問は、なぜイスタンブールやその他の大都市ではなかったのか、と考えれば氷解すると思う。つまり、本書における軍事クーデターがもし中心都市で発生したとすれば、それは1960年と1980年に実際に起きた軍事クーデターの再現であり、スケールのはるかに大きな、おそらく政治一色に近い小説として描かざるをえないはずだ。それよりむしろ、「オルハン・パムクはここでおそらく現代トルコの政治状況の縮図を象徴的に、時には戯画的に描」きたかったのではないか。縮図なら、クーデターは「すこぶる限定的」であるべきで、それには「深い雪に閉ざされた」遠隔の地のほうがふさわしいだろう。
 ここでは「文明の衝突、その一方で統一への希求といったさまざまなベクトルが見えてくる」。そこにファースやメタフィクション、ラヴロマンスなどをからませるとは、Orhan Pamuk って、ほんとにフトコロの深い、芸達者な作家だなと思わずにはいられなかった。
 ぼくが初めて Orhan Pamuk のことを耳にしたのは、2006年、彼がノーベル文学賞を受賞したときだ。さっそく代表作とやらを何冊か買い求めたものの、すべて積ん読
 同年夏の甲子園決勝は、あのハンカチ王子とマーくんの投げ合いだった。その数日後、ぼくは勤務先の大先輩のお宅を訪問。(あ、この話はいつかも書いたっけ)。早期退職して数年になる先輩がそのとき、辞めてから「Orhan Pamuk も読みました」と、にっこり笑って話してくれたのを、いまでもありありとおぼえている。
 それから干支が一巡した2018年、定年退職したぼくはようやく Pamuk の本を手に取った。以来、今回の "Snow"(2002)は6冊目(本書につづいて読んだ "The Red-Haired Woman" で7冊目)。これでたぶん、先輩が読んだものと思われる作品はほぼカバーしたはずだ。「ぼくも読みました」と、先輩がまだ存命のうちに報告したかった。
 以下、先輩の墓前に捧げるべく、2006年以降のものもふくめ刊行順に既読作品を挙げておこう。

1. The White Castle(1985 ☆☆☆☆)

2. The Black Book(1990 ☆☆☆☆★)

3. My Name Is Red(1998 ☆☆☆☆★)

4. Snow(2002 ☆☆☆☆)

5. The Museum of Innocence(2008 ☆☆☆☆)

6. A Strangeness in My Mind(2014 ☆☆☆★★)

7. The Red-Haired Woman(2016 ☆☆☆★★★)

(下は、この記事を書きながら聴いていたCD。ジャズはつくづく「平和の音楽」だと思う)

WALTZ FOR DEBBY

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