ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Mohsin Hamid の "The Reluctant Fundamentalist"

 Mohsin Hamid の "The Reluctant Fundamentalist" がノヴェラ程度の長さなので読んでみた。

The Reluctant Fundamentalist

The Reluctant Fundamentalist

[☆☆☆★] 書中、『ノルウェイの森』に近い内容があり、これはなかなか読みごたえがあった。恋人に死なれ、精神的に衰弱した女を愛してしまった男。その切ない思いには胸を打たれるが、二人以外に緑やレイコさんに相当する魅力的な人物が登場しないなど、村上作品よりは落ちる。女が昔の傷を思い出す契機がNYテロ事件で、同事件後、在米アラブ人が体験しているものと思われるジレンマ、すなわち、祖国や民族の存亡の危機に際し、合衆国で文明生活を享受しているという矛盾が本書のテーマだ。主人公はパキスタン人で、アラブ系ではないのだが、こうした世界的な政治情勢に前述の女の問題をからめることによって小説としてのふくらみが増している。活き活きした文体にも好感がもてる。が、生硬な主張も見られ、完全には熟していない。あの事件が小説の中で説得力を有するには、まだまだ時間がかかりそうだ。英語は準一級程度で読みやすい。
 …とアマゾンには投稿(その後、削除)したが、これもまあ、期待外れ。悪くはないのだが、過去の名作と較べると欠点が目立ち、結末にも納得がいかない。過去の名作とは、たとえばドストエフスキーの『悪霊』である。政治小説の古典だが、あれを読めば分かるように、政治や思想的な主張が小説において説得力をもつには、作者がまず、人間の本質的な問題について徹底的に思索し、次にその思索を充分に体現した複数の人物を登場させ、そして最後、対立する人物同士の激突から生じるドラマを自然に展開させなければならない。この手順を踏んでいるからこそ、『悪霊』においては、スタヴローギンやピョートル・ヴェルホーヴェンスキーなどの姿を通じて、全体主義の恐怖がひしひしと伝わってくるのだ。

 話が大きくなりすぎたが、ぼくがこの小説を読んで一番不満に思うのは、在米アラブ人の苦悩という好材料がありながら、なぜそれをもっと徹底的に料理しなかったのかという点である。このジレンマからは、人間が内面にかかえている矛盾、たとえば理想と現実、正義と欲望といった問題について、いくらでも発展させることができたはずだ。ところがハミッドは、そういう点に気がついていない。思索が足りないからだ。政治の問題をとりあげて人間の本質にふれることなく、単なる主義主張に終わるというのでは、その主張の是非とは関係なく、小説家としては失格である。
 いっそ村上春樹のように、政治とは関係のない形でドラマを作り、現代の風俗をうまく利用しながら人間の心情、特に感傷を綴ったほうが、どんなにすっきりしていることか。ハミッドが『ノルウェイの森』を読んだことがあるのかどうかは知らないが、せっかく男女の心の機微をうまく表現する力があるのに、この点でも中途半端に終わっているのが惜しい。今後はどんどん恋愛路線で行ったほうが、語り口がしゃれているだけに成功するのではないだろうか。
 ともあれ、今年のブッカー賞最終候補作を読んだのはこれで四作めだが、ロイド・ジョーンズの『ミスター・ピップ』を除き、どうも首をかしげてしまう作品ばかり。ほんとにどうなっているんだろう?