ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Kiran Desai の "The Inheritance of Loss" と John Banville の "The Sea"

 いやはや、驚いた。まさか Anne Enright の "The Gathering" がブッカー賞を取るとは!http://www.themanbookerprize.com/news/stories/1004 ぼくは今年も最終候補作をぜんぶ読んだが、その中で一番低く評価していた作品だ。それどころか、9月12日の日記には「昨年のショートリストに残ったどの候補作よりも落ちる」とまで書いている。今でもその評価に変わりはないが、受賞理由をよく読んでみることにしよう。ひょっとしたら、ぼくがアマゾンのレビューに書いた「皮膚感覚的といってもよいほど繊細な筆致」がものを言ったのかもしれない。
 とはいえ、ぼくは9月7日の日記に、「"The Gathering"…は、ロングリストの段階から気になっている。オッズの人気は低いが、去年の受賞作、キラン・デサイ "The Inheritance of Loss" もそうだった」と書いている。その予感がみごと(?)的中したわけだ。実は去年もキラン・デサイの名前を見たとたん、もしやと思ったものだが、下馬評の高かったサラ・ウォーターズの "The Night Watch" を読んでいたく気に入り、「本書が栄冠に輝いても何ら不思議ではないと思う」などとレビューに書いてしまった。やはり第一インスピレーションは信じるものだ。
 もっとも、去年は受賞発表前に読んだ候補作は二つ、ウォーターズと Kate Grenville のものだけだった。それなのに、なぜキラン・デサイが気になったかというと、彼女がアニタ・デサイの娘で、母親の作品の "Clear Light of Day" に感心した憶えがあったから、というあまり脈絡のない理由による。その「直感」より下馬評に頼ってウォーターズにいれこんでしまったわけだ。(ただし、評価は星4つ)。その後、年末までかかって候補作をぜんぶ読みおえたが、"The Inheritance of Loss" の受賞はきわめて順当だと思った。以下は受賞直後に書いたレビューだ。

The Inheritance of Loss

The Inheritance of Loss

Amazon
[☆☆☆☆★] 大方の予想に反して06年度ブッカー賞を受賞したのは、日本でも『グアヴァ園は大騒ぎ』でおなじみのキラン・デサイ。かのアニタ・デサイの娘だが、母親よりも先に頂点に立ってしまった。たしかに、評者がいままで接した候補作のなかでは、内面に矛盾をかかえた人物の提示、ひいては人間性の洞察という点に絞ると、本書は一頭地を抜いている。主な舞台は80年代のヒマラヤ山麓の村とニューヨーク。主題は最初、勘の鈍い評者にはしかとつかめなかった。さまざまな人物の現在と過去がモザイクさながら断片的に示されるなか、小気味よいテンポとコミカルなタッチを楽しみつつ、これは現代インド人の諸相、とりわけ日常生活の実態を描いた作品なのかと思っていた。いや、それが実態かどうかも分からぬ立場でいえば、少なくとも各人物の喜怒哀楽、これだけは紛れもなく本物であり、いわばその「真情の点景」が本書のセールスポイントかもしれない。しかし後半、民族運動のうねりが高まるあたりで、遅まきながら気がついた。この悲喜こもごも、とりわけ哀感の裏にあるものは、インドの近代の宿命なのではないか。コロニアリズム、独立と近代化、階級格差、貧困、富への願望、多民族間の対立。彼らはいまもなお、ことあるごとに、そうした「負の遺産」を痛感せざるをえない。文中の言葉を引用すれば、「過去と現在の戦い」、それを体現しているのが本書の主な人物なのである。が、けっして観念的な存在ではない。心中の歴史的矛盾を意識した、血も涙もある人間として描かれている。そして最後、かすかに示される希望。他書を圧倒しているかどうかはさておき、やはりブッカー賞にふさわしい作品である。

 今回アン・エンライトの作品が気になったのも、別に深い理由があったわけではなく、向こうの紹介記事を斜め読みした結果と、ペイパーバック版の表紙が印象的だったから、ということに過ぎない。まさに文学ミーハー派の面目躍如である。

[☆☆☆] ぼくは守旧派でもあるので、ストーリー性の弱い小説には点が辛くなる。また、上のレビューにも関連するが、人間を矛盾に満ちた存在として扱わない作家にはあまり関心がない。アン・エンライトが人間性の洞察に欠けるとまでは言わないが、"The Gathering" は「肉親を…亡くしたときの空虚な浮遊感」をベースとして「あやふやなストーリーを背景に、曖昧な印象を羅列している」作品だと今でも思う。その印象を鮮烈な感覚で綴り、詩的なまでに昇華させているなら話はまた別だが、この小説がその水準に達しているとは思わない。上の受賞紹介記事を読むと、エンライトをマードックやバンヴィルにたとえる向きもあるようだが、物語性や人物造型の点ではマードックのほうがはるかに上だし、詩的表現という点では、少なくとも『海に帰る日』には及ばない。[☆☆☆☆] 読了後、思わず溜息をついてしまった。なんという静謐な世界だろう。たしかに人物は動き、台詞は語られ、書きようによっては悲惨な事件が起こる。それなのに、ほとんどどの場面も、一幅のタブロー画でも見るような静けさに包まれているのだ。これはおそらく、本書のテーマが「喪失」であり、その喪失が常に回想形式で語り伝えられることに関係していると思う。海辺で過ごした少年時代の喪失と、老境にさしかかって新たに体験した喪失。そして、その二つの喪失を結びつけるかのように、いつまでも静かにうねる海。みごとな幕切れだ。バンヴィルがこの域に達するとは思わなかった。難しい単語もあるが、英語は総じて平易。

 …これも受賞直後のレビュー。今読むと、多分にご祝儀が入った批評なので赤面してしまうが、それでも、商売根性丸出しながらバンヴィル作品のほうが "The Gathering" よりよく書けていると思う。今年の候補作を改めて思い返しても、去年のキラン・デサイとは異なり、アン・エンライトの受賞にはどうも納得がいかない。が、文学にはいろいろな立場があっていいわけだから、いずれ、素人レビュアーのぼくの目から鱗を落としてくれるような鋭い分析が示されることだろう。その点、アメリカのアマゾンのブログに期待したい。http://www.amazon.com/gp/blog/A287JD9GH3ZKFY/104-0479793-5168747?%5Fencoding=UTF8&cursor=1192821193.07&cursorType=before