ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Joseph Conrad の "Lord Jim"

 この三連休、世の読書人は最高の毎日だったろうが、ぼくは土曜出勤の上、今日の午前中まで「家庭内残業」に明け暮れた。おかげで、ただでさえボケている頭が朦朧としている。よって今日は前回の続き。

Modern Classics Lord Jim (Penguin Modern Classics)

Modern Classics Lord Jim (Penguin Modern Classics)

[☆☆☆☆★★] 英語は古い用法が多く、上級者向き。また、海洋冒険物語と思って読み始めると、さにあらず、なかなか話が進まないので、ある程度、我慢して読まなければならない。しかし、その努力は最後に報われる。つまり、人間にとって結局、誠意や信義といったものは何なのか。平時ならともかく、絶望的な状況に陥ったとき、人は果たして他人に誠実たりうるのか。本書を読めば、そういう問題について深く考えさせられるからだ。また本書には、人間の進歩や悪の問題に関する卓見も見受けられる。『闇の奥』でも感じたことだが、コンラッドは、人間性の根元を鋭く見据えていた作家の一人ではないだろうか。

 …英文学の古典なので詳細は省くが、本書を読めば人間に関する一つの真実が分かる。つまり、戦争を始めとする極限状況に陥ったとき、人にできることは限られている。百パーセント完全な解決法などありえない。それどころか、後で後悔する選択肢を強いられることも多々あるのではないか。自分の答えが正解ではないと知りつつ、あえてその決断に踏み切らざるを得ない場合もあろう。メルヴィルの『船乗りビリー・バッド』で、ヴィア艦長が「ビリー・バッド! ビリー・バッド!」と叫び、心情的には少年ビリーの立場に与しながらも、艦内秩序を重んじて死刑判決を下したのが一例である。
 自分の目の前で奴隷が塗炭の苦しみを味わい、ユダヤ人がガス室に送りこまれようとしているとき、人間にできることは何なのか。前回の繰り返しになるが、こういう問題に Geraldine Brooks はさっぱり答えようとしていない。一方、スペイン人民戦争に参加したオーウェルは、"Reflections on Gandhi" においてホロコーストを採りあげ、「人間的であること」の意味を問うている。その根底にあるものは、コンラッドが『ロード・ジム』で描いた人間像に近い。つまり、人間は数多くの限界をもつ不完全な存在だという痛切な認識である。それはまた、イレーヌ・ネミロフスキーが "Suite Francaise" の中で示した人間観でもある。
 むろん、限界の表現は三者三様だ。オーウェルは、非人間的な行為の座視を同じく非人間的な行為と見なし、切羽の際はあえて罪を犯すことが人間の証明なのだという。一方、『ロード・ジム』におけるコンラッドは、神ならぬ人間ゆえの判断の不完全さに絶望する。ネミロフスキーは、法と秩序が失われた際に露呈する人間のエゴイズムを容赦なく暴きだす。
 が、こうした表現の違いは人間の限界の諸相を示すものであって、三者とも悲劇的人間観に立脚している点では共通している。それが第一級の文学者であるゆえんなのだ。ぼくは、こういう人間観に基づかない戦争文学を一流の文学と認めることができない。戦争の悲劇を描くだけでは二流三流に過ぎないとさえ思う。そんな作品がどこかの国には満ちあふれているのではないか。