ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Rachel Cusk の "Arlington Park"

 前々回に紹介した最近の文学賞レースでいちばん気になっているのはオレンジ賞だが、候補作を読むのは昨年同様、ショートリストの発表後にしようと思っている。今日は、三つだけ読んだ去年の最終候補作のうち、Rachel Cusk の "Arlington Park" のレビューを再録しておこう。

Arlington Park

Arlington Park

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[☆☆☆★★] 07年度オレンジ賞の候補作。さて結果はどうなるか。いちおう長編の体裁をとっているが、実質的には短編集といってよい。舞台は雨の降りしきるロンドン郊外の住宅地。近所づきあいのある主婦が次つぎに登場し、それぞれの視点から、ショッピングやホーム・パーティ、子供の通学など、ごく日常的な生活風景を通じて、家事や育児に追われる女性たちの鬱屈した心理が克明に描かれる。母として女として、わたしの人生はなんだったのか。街の精密な客観描写に彼女たちの閉塞感や徒労感、挫折感などが入り混じり、雨の街と人物が一体化した心象風景は、吉行淳之介の『驟雨』をいくぶん思い出させるものがある。しっとりした情感という点では吉行のほうに軍配が上がるものの、本書で鋭くえぐりとられた人生の断片には、主婦ならずとも身につまされる読者が多いのではないか。濃密な心理描写にやや胃がもたれ、統一したテーマとはいえ、同じような話がつづくことにも若干不満をおぼえるが、皮膚感覚としかいいようのない鋭敏な感性には驚くばかり。才女レイチェル・カスクの面目躍如である。

 いかにもイギリスの小説らしい渋い作品だ。それゆえおそらく日本では陽の目を見ることはないかもしれないが、女性読者なら、「そうそう、そうなのよ!」と小膝をたたくことが多いのではないかと想像する。それどころか、女性以外の洋書ファンにとっても、こんな「埋もれた」佳作に出会うことは望外の喜びだろう。
 本書を読んだ感想は上のレビューに尽きているので、ついでに吉行淳之介のことにふれておくと、最近は街の本屋で、『原色の街・驟雨』や『娼婦の部屋・不意の出来事』といった新潮文庫の名短編集を見かけることがほとんどなくなった。後者に収録されている『鳥獣虫魚』など、思わず溜息が出るような絶品なのだが…冒頭の一文だけでも書き写しておこう。「その頃、街の風物は、私にとってすべて石膏色であった」。

 『驟雨』が載っている吉行のいちばん新しい短編集は次の版のようだが、学生時代、吉行の小説に耽溺したことのあるぼくとしては、大きな書店ではなく、普通の本屋の文庫本コーナーに彼の本がないのはとても寂しい。まさか吉行まで埋もれつつあるとは思いたくないのだが… ちなみに、『鳥獣虫魚』は吉行が宮城まり子と出会ったころの心象風景を綴ったもの、と吉行自身が述懐したエッセーを読んだ憶えがある。