通勤電車の中だけで、何とか R. J. Ellory の "A Quiet Belief in Angels" を読みおえた。
- 作者: R. J. Ellory
- 出版社/メーカー: Orion (an Imprint of The Orion Publishing Group Ltd )
- 発売日: 2007/01/01
- メディア: ペーパーバック
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…いわゆるミステリ作家の作品に接するのは何と8年ぶり。本書を読もうと思ったきっかけは、これが Galaxy British Book Awards の Richard & Judy Best Read of the Year の候補作に選ばれていたからだ。http://www.britishbookawards.co.uk/pnbb_richardandjudy.asp?
同賞の最優秀作品賞は Ian McEwan の "On Chesil Beach"、リチャード&ジュディ賞のほうも Khaled Hosseini の "A Thousand Splendid Suns" にそれぞれさらわれてしまったが、リチャード&ジュディのブッククラブといえば、けっこう大衆受けのする作品を紹介することで知られ、その推薦図書はイギリスのベストセラーになることが多い。本書も現在、英アマゾンのフィクション部門で第二位の売れ行きになっている。で、あちらのレビューを斜め読みすると、ミステリではあるがかなり文学的らしい。そんな動機で珍しくミステリを読みだしたわけだが、結論を言うと、ミステリとしてはまずまず面白い。が、同時に、ミステリの限界を露呈した作品でもある、と思った。
「ミステリとしてはまずまず面白い」というのは過小評価かもしれない。ぼくはなにしろ、電車の中でこまぎれにしか読まなかったので、印象がどうも散漫なのだ。こんな作品は一気に読んだほうが真価が分かるものである。思わず引きこまれる場面がいくつもあったことを考えると、これはむしろ上出来の部類に入るような気もする。
ただ、机の前でも読みたいとは思わなかった。一つには、ぼくがもうミステリとはすっぱり縁を切っているからだが、そういう部外者の目で見ると、ますますミステリの持つ限界が気になってくる。
たしかに R. J. エロリーの文章力はすばらしく、何を描いても非常に丁寧で、事件としては同じサイコ・スリラーでも、その昔読んだトマス・ハリスやパトリシア・コーンウェルなどの筆致とはかなり違う。彼らの作品は犯人探しがメインだが、エロリーのほうは、事件に巻きこまれた人間の内面描写を中心にすえている。その意味で「かなり文学的」であると言えるし、本書を「サイコ・スリラー」と呼ぶのも間違っている。
だが、これはミステリ全般に言えることなので身も蓋もない話になってしまうが、過去の事件にこだわる本質的な意味は何なのか。むろん必然性はある。悲劇がトラウマになっているからだ。事件が連続し、主人公が常に巻きこまれているからだ。が、その設定を承知の上で、あえて問う。人が自分の過去にこだわるとき、そこにはどんな意味があるのだろうか。
ミステリを楽しむ上ではまったくお門違いの質問だが、本書の主人公ほど過去に縛られた人間を見ると、ぼくのように昔の恥や傷を忘れることで生きている者にしてみれば、「そんなのカンケイねえ!」と言いたくなるのだ。つまり、読書中は手に汗握っていても、読み終わって自分の人生に戻れば、昔のことを思い出したり忘れたりしながら生きている。では、過去の囚人の物語は、そういう人生にどんな意味を残したと言えるのか。ひとときの娯楽?それならまさしく「エンタテインメント」であり、文章はいくら「文学的」であっても、内容として「文学」と言えるのだろうか。つまらない詮索だが、そういう風に考えると、少なくとも「ミステリとミステリ以外の文学」というジャンル分けがあるように思えるのだ。
その点、前々回にふれたトバイアス・ウルフの "Old School" は間違いなく「ミステリ以外の文学」である。詳細は忘れてしまったが、レビューに書いた「本書の主な登場人物はすべて、自分の内面の問題について深く思いをめぐらせており、そのように自分自身と真剣に格闘した心の記録には胸を打たれずにはいられない」という感想は今でも変わらない。ぼくはいい加減な人間なので、「自分自身と真剣に格闘」することはまずない。だからこそ、そういう「格闘」の記録を読んで「胸を打たれ」たのだ。つまり、あの本はぼくの人生に足跡を残したことになる。それゆえ「ミステリ以外の文学」なのだ。
あと一つ、この "A Quiet Belief in Angels" を読みながら感じた「ミステリの限界」がある。それは、サイコ・スリラーの犯人は誰だろうと、異常性格者に決まっているということだ。「やっぱり、こいつが犯人だったのか」と思った読者と、「え、こいつが!」と驚いた読者とでは多少温度差はあっても、世の善男善女には「そんなのカンケイねえ!」
まさしく「身も蓋もない話」ばかりで、ミステリ・ファンが以上の感想を読んだら、実にばかばかしいとしか思えないだろう。が、ぼくはもはや、昔のように純粋にミステリを楽しむことはできなくなってしまった。「ミステリの限界」というよりは、自分の限界を感じたと言うほうが正しいかもしれない。