ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Iain Banks の "The Steep Approach to Garbadale"

 この土日は内職で明け暮れたので本が読めなかった。そこで例によって昔のレビュー。

The Steep Approach to Garbadale

The Steep Approach to Garbadale

[☆☆☆] かのサイコ・スリラー『蜂工場』で名高いイアン・バンクスだが、ずいぶんおとなしい小説を書くようになったものだ。荒削りだが異様な熱気に満ちていた同書に較べ、本書は複雑な構成、精妙な描写など、いろいろと工夫を凝らしてはいるものの、根底に流れているのはごく普通のメロドラマである。青春時代の初恋の思い出、その失恋を克服できない心の遍歴、初恋の相手との再会を前に、結婚を望まない現在の恋人に抱く微妙な感情。その一方、幼い主人公を残して自殺した母親の秘密…。思わず引きこまれる場面もいくつかあってそれなりに楽しめるが、基本的にどこかで読んだような物語という印象を否めない。母の秘密にしても、ロマンス好きの評者にはほぼ予想どおりの内容だった。とはいえ、メロドラマそのものが決して悪いわけではない。問題なのは、場面転換が多すぎて、せっかく盛りあがったサスペンスが腰を折られると同時に、本筋とは関係のない説明をしばしば聞かされることだ。饒舌を排し、単純明快なメロドラマに徹したほうが、ずっと面白い作品に仕上がっていたのではないか。英語的には語彙の難易度がかなり高く、また微妙な意味を含む会話が多いので上級者向きだろう。

 …前回は、猟奇的な連続殺人を描いた R. J. Ellory の "A Quiet Belief in Angels" について書いたので、今日はサイコ・スリラーつながりで思い出したイアン・バンクスの話。こじつけもいいところだが、本書の感想は上のレビューに尽きている。そこで、昔読んだ『蜂工場』をだしに駄文を綴ることにしよう。

The Wasp Factory: A Novel

The Wasp Factory: A Novel

 『蜂工場』の印象は実は薄い。最初はかなり面白かった憶えがあるが、読み進むうちに、こんなサイコ・スリラーを書く意味は何なのかという疑問がうかび、それが頭の片隅に引っかかって楽しめなくなった。異様な人物の登場する悪夢のような世界という設定自体は悪くはない。が、それは人間の異常性を訴えたいのか、現代社会のひずみを象徴したものなのか。あれこれ考えたが、よく分からなかった。今読み返せば何か発見があるのかもしれないが、再読に値する作品でもないような気がする。で、去年の3月に他版で "The Steep Approach to Garbadale" を読み、イアン・バンクスにはまたしても失望させられた。彼は二流作家なのか?最新作の "Matter" で技量を確認したいところだが、どうも食指が動かない。
 ぼくは前回、"A Quiet Belief in Angels" を「ミステリとしてはまずまず面白い」と評したが、『蜂工場』よりはずっと面白い作品だ。それどころか、こまぎれに読んだ印象がまとまりつつある現在、あれはかなり「上出来の部類に入る」のではないかとさえ思う。やれ、主人公が過去に縛られすぎている、それ、犯人が異常性格者だ、などと筋違いのイチャモンをつけるべきではなかった…もっとミステリとして楽しむべきだった。
 ただし、あえて「文学的」な観点から分析すれば、上記の「欠点」はやはり「ミステリの限界」を示したものだろう。さらに「身も蓋もない話」をすれば、そもそも連続殺人を扱い、事件に巻きこまれた人間の心理を描く意味は何なのか。…そんなことを考えるようでは、とてもミステリなど読んではいられない。ミステリとは、何らかの事件が起こり、それが解決されることを前提とする小説であり、その前提そのものを疑うような読者はお呼びではないからだ。
 『蜂工場』に関する疑問も同じである。要はイアン・バンクス、おまえは何を言いたいのか。そう考えると、サイコ・スリラーを書く意味が明確でない以上、『蜂工場』と "A Quiet Belief in Angels" を隔てる距離はさほどないことになる。それどころか、いかにも意味ありげに異常な世界を描いた「純文学作品」より、意味がないことを前提に上質の娯楽を提供した「ミステリ」のほうが、よほどましなのではないだろうか。この結論を導くためには、昔の印象を述べるだけでなく、『蜂工場』を再読し、イアン・バンクスが二流作家かどうかを確かめなければならない。それを怠ったまま書いたこの日記は、まさしく「駄文」に他ならない。
 今日も「身も蓋もない話」ばかりになってしまったが、ぼくが『蜂工場』に不満を覚えるのも、"A Quiet Belief in Angels" に「筋違いのイチャモンをつけ」たのも、実は理由がある。ぼくの乏しい読書体験で判断する限り、文学史上最高のサイコ・スリラーと思える、ドストエフスキーの『悪霊』とどうしても比較せざるを得ないからだ。人間の狂気を描いた作品で、あれほどの必然性と説得力を持つものはほかに読んだためしがない。その狂気の正体について書く時間は今はない。ペンギン版の古風な英語はなつかしいが、死ぬまでにぜひ、Richard Pevear, Larissa Volokhonsky 夫妻の英訳で再読したいと思っている。
Demons: A Novel in Three Parts

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