ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Claire Messud の "The Last Life"

 先々週、Abha Dawesar の "That Summer in Paris" を読んでいるうちに思い出した作品の一つ。このところ3日で1冊のペースで新しいレビューを書いていたのだが、さすがにきつくなり、今日は昔のレビューでお茶を濁そう。

The Last Life: A Novel

The Last Life: A Novel

[☆☆☆★★★] 実に歯ごたえのある小説だ。青春小説?ファミリー・サーガ?いや、やはりこれは、愛と人生の意味を問い直した思索の書と言うべきだろう。主人公はフランス生まれでニューヨーク在住の女性。両親ともども、南仏でリゾートホテルを経営する祖父のもとで暮らした十代半ばの娘時代を回想する。友人との交流や微妙な乙女心など、青春小説の要素も終始継続されるが、それと交錯する形で、アルジェリア独立戦争の戦禍を逃れてフランスに移住した家族の歴史、親子や夫婦、嫁姑の対立なども描かれる。が、いずれにしても、その根底に流れているのは、家族は果たして愛し合える存在なのか、人生は生きるに値するものなのか、といった痛切な問いかけだ。そういう主人公の内心の問答は、時に晦渋と言ってよいほど観念的になることがあるものの、それは、彼女がそれだけ切羽詰まった状況や事件に遭遇した証左でもある。知恵遅れで植物人間に近い弟の存在もその一つ。ともあれ、その思索の方向は、時代も文化も異なるが、森鴎外の『かのやうに』を思わせるものがあって興味深かった。文体的にも、会話の部分は簡単だが、地の文では難易度の高い語句と複雑な構文が連続する上級者向きの英語だ。

 …シノプシスの斜め読みで、どうやら最初の舞台が南フランスらしいと分かり、それより何より、印象的な表紙に惹かれて買い求めた本。そんなミーハー的な期待をいい意味で裏切り、終盤ほどかなり重厚な作品だったと思う。
 森鴎外の『かのやうに』には、主人公秀麿の言葉としてこんな一節がある。
 「自由だの、霊魂不滅だの、義務だのは存在しない。その無いものを有るかのやうに考へなくては、倫理は成り立たない。理想と云つてゐるものはそれだ。…どんな哲学者も、近世になつては大抵世界を相待に見て、絶待の存在しないことを認めてはゐるが、それでも絶待があるかのやうに考へてゐる。…かのやうにがなくては、学問もなければ、藝術もない、宗教もない。人生のあらゆる価値のあるものは、かのやうにを中心にしてゐる。」
 つまり、西洋人は絶対的な価値を信じられなくなった近代でも、依然としてそれが「有るかのやうに」振る舞っているというわけだが、その真偽はさておき、この主張の先で秀麿が、そして恐らく鴎外が言いたかったことはこうだ。…それなら、元から絶対的な価値を信じない日本人はなおのこと、人生に何か重大な価値が「有るかのやうに」考えなければ生きていけないだろう。
 今ここでこの問題における彼我の差を論じる余裕はないが、面白いことに、Claire Messud の "The Last Life" にも、人生「かのやうに」論が出てくる。昨今の対テロ戦争を見ても、絶対的な正義を唱える西洋人の「絶対志向」はさほど昔と変わらないような気もするけれど、少なくとも、人生「かのやうに」論が活字になるほどには、もはや「西洋人は絶対的な価値を信じられなくなった」のかもしれない。
 Claire Messud はその後、06年のブッカー賞のロングリストにも選ばれた "The Emperor's Children" を発表している。ぼくは未読だが、そこでもやはり人生「かのやうに」論その他の論究があるようなら、Messud は現代文学では珍しく思索型の作家と言えるかもしれない。