ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Julio Cortazar の “Hopscotch”(2)

 3年前に読んだあと書棚の奥に突っこんでいた "Hopscotch" を引っぱりだしてみると、第三部の冒頭には 'Expendable Chapters' という副題がついている。訳せば「読み捨ての章」。つまり、これから先はもう読まなくてもいいぞ、というわけだが、作者コルタサルの指示どおり「読み捨て」た読者は少ないのではないか。
 ぼくもがんばって完読した口だが、レビューに書いたとおり、「正直言って、最後まで読み通すのは苦痛だった」。英訳物の通り相場と違って英語は難解だし、そもそも意味不明な箇所が多く、早く終わってくれと何度念じながら読んだことか。読書中にそんな経験をしたのは初めてだ。
 だから、副題どおり「読み捨て」てもよかったのだが、明らかにコルタサルは途中で投げ出す読者がいることを予測して書いている。そう思ったので、「そんな読者もいることを想定した作者の意図は見事に成功!?」とレビューを締めくくったのだ。
 まことにケッタイな小説もあるものだが、ぼくが今でも不満に思うのは、いろいろ奇抜なアイデアを用いて「文学実験」を試みるのはいいとして、その実験の意味が読者に伝わらなくては、実験は失敗に終わったと言えるのではないか、ということだ。べつに「読み捨ての章」が設けられていなくても、どんな作品でも読者は退屈だと思えば投げ出していい。そんな分かり切ったことをわざわざ指定する意味がぼくには分からない。
 コルタサルはまた、本書の冒頭で、直線的な主筋を読者が(指針は示されているものの)勝手に並べかえて読んでもいいとも述べている。だが、そんなことをすれば煩わしいだけで読書の興がそがれる。ぼくは第一部と第二部を「普通に」読んで充分楽しかった。
 あるいはコルタサルとしては、現実はすべて人間が自由に変革していいものであり、中には expendable「消耗してよい」、つまり無意味な現実もある、と言いたかったのかもしれない。今ふりかえるとそんな気もするが、読んでいるときはピンとこなかった。
 まあ、ぼくはメタフィクションマジック・リアリズムのよき理解者とは言えないということだろうが、今回、カルロス・フェンテスの "A Change of Skin" を読み、"Hopscotch" に対するのと同じような不満を感じている。…コルタサルの話が長くなりすぎてしまった。フェンテスの続きはまた後日。