ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Elizabeth Berg の "We Are All Welcome Here"(2)

 前々回、ぼくは Elizabeth Berg の "We Are All Welcome Here" を評して、「室内劇が中心」で、「事件も人物関係もあまり発展しようがない」と書いてしまったけれど、これはいささか誤解を招く表現だ。室内劇でも、事件や人物関係がどんどん発展するものもあるからだ。
 じつは今日、ひさしぶりに日比谷まで出かけ、ニキータ・ミハルコフ監督の『12人の怒れる男』を観てきた。ご存じ往年の名画、シドニー・ルメット監督作品のリメイクである。家に帰ってさっそく旧作もDVDで観なおしたところだが、一分の隙もない緊密な構成という点ではルメットのほうが上。
 ただ、ミハルコフのほうには、室内劇でありながら室内から飛び出した広がりがある。ヘンリー・フォンダに代表される明快な正義のメッセージとは異なり、単純に有罪か無罪かという次元だけでは割り切れない問題も提出され、陪審員や被告の人生もいっそう陰翳に冨んでいる。事件の解明が始まるのが遅すぎるという難点はあるが、ミハルコフの関心は、単なる法廷劇を超え、人生と社会、政治の現実を映しだす点にある。
 一方、"We Are All Welcome Here" はどうか。重度の身障者ながら、「逆境にめげず気丈にふるまう美しい母親」と、「自立心が芽ばえたものの、まだ分別をわきまえない娘、口うるさいが内心は愛情豊かなヘルパー」という主な人物設定だけで、小説の中身もおおよそ見当がつく。娘が主人公であるだけに青春小説という要素はあるものの、とどのつまり、いわゆる難病物のお決まりのパターンから脱していない。
 室内劇が深化するためには、何より登場人物の心理、ひいては人生をしっかり描く必要があるし、その室内にはない大きな背景があればなおさら効果的だろう。ミハルコフの『12人の怒れる男』も定番といえば定番の設定なのだが、それをステロタイプと感じさせない演出のうまさが光る。静と動、光と影を使い分けた映像処理も見事。
 小説と映画を較べるのは無謀きわまる話だが、それを百も承知の上で、ミハルコフの映画を観たあとで "We Are All Welcome Here" をふりかえると、ますます紋切り型の作品としか思えなくなってきた。