ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

William Maxwell のことなど(2)

 William Maxwell のことは、じつはあまりよく知らない。読みだしたばかりの "The Chateau" の裏表紙にある紹介記事にも目を通していない。何年か前、"They Came Like Swallows"(37) という短い小説を読んだことがあるだけだ。

They Came Like Swallows (Vintage International)

They Came Like Swallows (Vintage International)

 たしか幼い少年が主人公で、父親や兄とのあいだの葛藤、友人たちとの交流が描かれ、メインは美しい母親が病死する話だった。繊細な筆致が印象的で、少年の傷ついた心がしみじみと伝わってきて、静かな感動を覚えたような気がする。何だか心もとない話だが、ぼくはどんな本でも予備知識はなるべく仕入れないようにしているので、作家に関しては以上で充分だ。
 "The Chateau" の正体はまだ見えてこないので、今日は『愛の嵐』の続きを書こう。ナチスの将校が強制収容所ユダヤ人の美しい娘と関係し、戦後、二人が再会したとき、その関係が再燃するという物語で、当初、将校はサディスティックに関係を迫るものの、娘のほうもやがて将校を愛するようになり、二人の愛は倒錯的で隠微な官能の世界に属する。
 そんな愛は不健全で、これはやはり戦争が生んだ悲劇のひとつなのだ、という見方も成り立つかもしれないが、ぼくはべつに反戦映画だとは思わなかった。男と女が結びつくとき、そこには理性では計り知れない闇の力が働くことがある。それがこの映画の勘所ではないだろうか。
 シャーロット・ランプリングがディートリッヒの歌を唄う場面は、そんな暗い力を象徴しているような気がした。それは文学作品で言えば、『嵐が丘』におけるヒースクリフとキャサリンの関係を思わせる。まあ、あちらは「倒錯的な官能の世界」ではないけれど、「理性では計り知れない闇の力」が働いている点では同じだろう。
 残念ながら、映画『嵐が丘』のルイス・ブニュエル版は未見。しかし、ウィリアム・ワイラー版でも充分、「闇の力」を感じることができる。