ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"Moby-Dick" と「闇の力」(3)

 ぼくはメルヴィルについて考えるのは本当に久しぶりだし、またこの8年ばかり、日本の小説および翻訳にはほとんど接したことがないので、『白鯨』の新訳が出ていることも知らなかった。今日届いた岩波文庫版をぱらぱらめくってみると、たしかにネットの評判どおり読みやすい。そこで、昨日おととい引用した箇所を八木敏雄訳に改めた。
 さて、ふたたび自問するが、あの白い鯨はいったい何を意味しているのだろうか。この疑問に答えるにはまず、エイハブの立場を検証しなければならないと思う。
 エイハブは猛烈な理想主義者だ。白鯨を根元的な悪の存在と見なし、鯨を仕留めるためには、自分の生命を投げ出すどころか、ほかの乗組員までも巻き添えにしてしまう。悪の根絶という高い理想を掲げ、その理想を実現しようとして破滅する。たかが鯨一匹に何をそこまで、と思うかもしれないが、"Moby-Dick" を英語で読めば、そんな常識的な感想など吹っ飛んでしまう。何しろパワー全開の文体だ。狂的なまでに理想を追求しようとするエイハブの執念にとにかく圧倒される。
 エイハブの破滅が意味するものは明らかだ。今さらぼくなどが指摘するまでもなく、メルヴィルは、エマスンやソーロウに代表される当時の楽天的な超絶主義者たちに「永遠の否定」を突きつけていた。彼らは人間の理想が簡単に実現できるものと考え、「すべての悪は、その程度に応じて、死であり、非実在である」(エマスン)などと夢想しているが、理想主義はいったい何をもたらすのか。見よ、エイハブの死を。乗組員たちの運命を。理想をとことん追求すれば、とんでもない流血の惨が待っている。
 フランス革命ロベスピエールの恐怖政治を生み、南北戦争が南部住民の虐殺をもたらし、ロシア革命スターリンの血の粛清につながり、毛沢東の人民解放が大躍進や文革における虐殺を呼び、アラブの正義がテロ攻撃に発展し、反テロ戦争がまた虐殺を招く。まさしく "Moby-Dick" には、近代から現代にかけての世界史の縮図がある。
 このようにメルヴィルは、エイハブと乗組員たちの運命に託して、正義の追求がもたらす大惨事を描いたわけだが、さりとて彼は、理想の実現を、理想主義そのものを全面的に否定したわけではない。それは、海の藻屑と消えさる前にエイハブが発した言葉ひとつ取っても明らかだ。
 Oh, now I feel my topmost greatness lies in my topmost grief. おお、いまこそ感じるぞ、おれの至上の偉大さは、おれの至上の悲しみにある。(拙訳)    (続く)