ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"Moby-Dick" と「闇の力」(10)

 まあ簡単に言ってしまえば、人間を強く惹きつけ、自己制御が不可能にまでに狂わせる真善美の力、もしくは逆に、真善美を手にいれようとする理性では抑えきれない衝動が「闇の力」なのだと、ぼくは漠然と考えている。ニーチェなら、真善美ではなく「力」と言うかもしれない。
 真善美、そして力。そのひとつひとつについて論証していくには大変な時間がかかるし、ぼくにはとてもそんな力もない。ただ、このうち善の問題についてだけは、メルヴィルを少々かじったことがあるので、ある程度分かる。
 たとえば、「闇の力」は「理性では抑えきれない衝動」だと上述したが、これは善の追求にかんして言えば、じつは少々不正確だ。「狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である」とはチェスタトンの有名な言葉だが、こちらのほうが正しい。さらに、「狂人とは自分の理性以外のあらゆる物を失った人である」と言い換えれば、「理性の狂気」の意味は明らかだろう。
 つまり、少なくとも文化的に「絶対への欲求」をもつ西欧人の場合、善の追求はしばしば「絶対善」、絶対的な正義の追求となる。そしてその過程で、自分の掲げる理想に反する者の抹殺が始まる。ベルジャーエフの言葉を引用しよう。
 われわれが悪を滅ぼそうとすればするほど、かえって新しい悪が生じてくる。…われわれが悪を根絶しようと夢中になると他人に対して寛容な心を失い、冷酷となり、悪意をいだき、熱狂主義者となり、容易に暴力に訴えるようになる。善人も「悪人」と戦ううちに「悪人」になる。
 これが「理性の狂気」という「闇の力」の正体だ。この衝動は、なまじ理想の追求、正義感という理性に発するものであるだけに、理性による歯止めが効かない。この「闇の力」ゆえに、「無限の自由」という崇高な理想から「無限の専制主義」が生まれ、「天使」たらんとした人間が「獣」になり、そして「神たらんとした」エイハブが悪魔的な人物と化すのである。(続く)