ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"Moby-Dick" と「闇の力」(14)

 白鯨を根元的な悪の存在と見なすエイハブは、悪の根絶、言い換えれば、この世に絶対的な正義を樹立しようというヴィジョンに憑かれている。さような理想主義的ヴィジョンはたしかに美しい。しかし一方、それは必然的に流血の惨をもたらすがゆえに恐ろしい。それが革命と戦争、テロの相次ぐ近現代の悲劇である。
 この理想主義の栄光と悲惨という歴史の真実を思い浮かべたとき、イシュメールの言う「鯨の白さ」の意味は明らかだろう。「白は精神的なもののいちばん意味ぶかい象徴であり、いや、キリスト教の神のヴェールそのものでありながら、同時に、人類にとっていちばん恐怖すべきものを象徴する強烈な符丁なのである」。これはまさしく、エイハブが憑かれているような理想主義的ヴィジョンの説明ではないだろうか。
 つまりメルヴィルは、方やエイハブに託して理想主義の衝動に駆られた人間の姿を描くと同時に、方やイシュメールの目を通して、その衝動がいかに美しいものであり、かつまた、いかに恐ろしい結果を招くものかと訴えている。それが "Moby-Dick" のテーマだ。それゆえ、昔からいろいろな解釈が試みられてきた白鯨の意味も、「エイハブにとっては根元的な悪の象徴」であり、「イシュメールにとっては理想主義的ヴィジョンの象徴」と考えるのが妥当な線だろう。
 しかしそれなら結局、悪であるものが同時に善でもある、ということになりはしないか。そんな矛盾が許されるのか。いや、それは決して矛盾ではない。と言うより、そういう矛盾こそ人間の現実の姿なのだ。既に見てきたように、エイハブは「理想主義の栄光と悲惨を一身に担う存在」として、「偉大な英雄」であると同時に「極悪非道の悪人」でもある。同様に、エイハブが追求したような理想主義的ヴィジョンも、「美しい」と同時に「恐ろしい」ものなのだ。そしてまた、今日も事件を起こしたテロリストの正義も反テロリストには不正義なのだ。「所変われば正義変わる」、それが世界の現実なのである。(続く)