ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"Moby-Dick" と「闇の力」(19)

 そしてイシュメールだけが生き残った。なぜか。白鯨の意味と同様、この謎についても昔からいろいろな解釈が試みられてきたはずだが、すべて失念。若い頃に "Moby-Dick" を読んだときもあまり気にしなかった。
 そこで今回、八木敏雄訳でエピローグを読み直してみると、「わたしは…ことの次第をつぶさに観察できる位置にいた」というくだりが目についた。イシュメールの生存の意味はたぶん、これだろう。
 簡単に言えば、人間のすべての営みを観察し、報告する役割の人間が必要だった、ということだと思う。むろんイシュメール自身、エイハブのカリスマ性に魅了され、その衝動に巻きこまれ、最後まで白鯨を追撃する。が、イシュメールは、「白鯨をその白さゆえに、崇高な理想主義的ヴィジョンの象徴と見なす」一方、同じくその白さゆえに、「虚無の思想に背後から刺される思い」、つまり、「戦うべき理想が何もないかもしれない」、「理想だと思ったものが、実際は理想でも何でもないかもしれない」という疑念にとらわれていた。この疑念はエイハブの頭もかすめはするものの、それは一瞬の出来事に過ぎない。ところがイシュメールの場合、鯨の白さの意味についてえんえんと思考をめぐらしている。つまり、それだけ彼は元から「観察者」であったことになる。
 その観察者としての役目ゆえ、イシュメールは激しい戦闘のあとに訪れる沈黙、つまり、「人間の力ではどうにもならぬ永遠の真理を人間が知り、その真理の重みに言葉を失ったときの沈黙」にみずからひたり、その沈黙について報告する義務があった。要は、「五千年前と変わらぬ人間の永遠の姿」を伝えるために生き残ったのではないだろうか。
 ただ、直接的な生存の意味は以上のとおりだとして、一人だけでも生存者が残った結果、さらに深い意味が生まれていることも忘れてはなるまい。(続く)