ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Mary Ann Shaffer & Annie Barrows の "The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society"(4)

 読みだしたばかりの今年のオレンジ賞受賞作、Marilynne Robinson の "Home" も気になるが、もう少し "The Guernsey Literaray...." の話を続けよう。昨日の日記を読みかえしてみると、「鶏を割くに牛刀を用いる」の喩えどおり、いささか過剰反応だなと我ながら苦笑してしまった。これは戦争が背景にあるものの戦争小説とは言えず、悲劇的人間観に立脚していないから傑作ではない、などと決めつけるのはお門違い。やはり「一服の清涼剤」として、「上品なユーモア」と心温まるエピソードを楽しむに限る。
 とはいうものの、ここに「光と闇の配合」が認められるのも紛れもない事実である。戦争という「極限状況においても善意や正義感、愛情を忘れず、また陽気にたくましく生きる人間がいる」。本書のユーモアが光り輝くのも、悲惨な背景があればこそ、という点を見逃してはなるまい。
 そこで思い出したのが、メルヴィルの『白鯨』である。ぼくは昨年の秋から今年の1月まで「"Moby-Dick" と闇の力」と題し、えんえんと駄文を綴ったものだが、最終回を書こうと思いつつ、先の見えた結論を述べても詰まらないし、2月から Roberto Bolano の "2666" を始め、秀作佳品を追いかけるのに忙しく、ついほったらかしにしてしまった。
 "The Guernsey Literaray...." を論じて "Moby-Dick" に移るとは、またずいぶん「過剰反応」というか飛躍もいいところだが、"Moby-Dick" こそ光と闇を配合した大傑作であり、戦争小説としても超弩級の名作なのである。以下、駄文の最終回を仕上げる都合上、1月に書いた前回をコピーしておこう。

 イシュメールは「観察者としての役目」を果たすべく、五千年前と変わらぬ人間の永遠の姿を伝えるために生き残った。が、その役目はともかく、一人でも生き残ったことにより、ひとつ明るい意味が生まれている。どんなに恐ろしい流血の悲劇が起ころうとも、人類が絶滅することだけはない、ということだ。

 むろん核戦争の可能性を否定しきれない現代において、このメルヴィルの「予言」が正しいかどうかは分からない。が、遺作『ビリー・バッド』の序文にもあるとおり、メルヴィルは人間の進歩の可能性を完全に否定していたわけではない。ミルトン・スターンの名著、"The Fine Hammered Steel of Herman Melville" をもじって言えば、メルヴィルは人間が悲劇をくりかえす現実を直視しながらも、そのことに決して絶望しない「鋼のごとく鍛えられた精神」の持ち主だったのだ。

 エイハブの例に見られるように、人間は理想主義の衝動という「闇の力」に駆られ、正義の名のもとに惨劇を引き起こす。それは「五千年前と変わらぬ永遠の真理」である。けれどもメルヴィルは、「闇の力」の恐ろしさを熟知しつつ、ロレンスの言うように、「心底では…理想家だった」。その彼にとって、歴史とは惨劇のみで終わるものではない。ましてや人類の絶滅など到底考えられない事態だったに違いない。

 メルヴィルを論じたロレンスの『アメリカ古典文学研究』には、感動的な一節がある。「愛はけっして充足を与えてくれはしない。生活はけっして永続的な至福をもたらすものにはならない。楽園などありはしない。戦い、笑い、苦しい思いをし、楽しい思いをし、それからまた戦うのだ。戦い、戦いつづけるのだ。それがつまり生活だ」。(酒本雅之訳)

 結局、イシュメールの生存は、恐ろしい悲劇から人間が立ち上がる可能性を意味している。これはたしかに「明るい」材料だ。が、それが決してバラ色の未来を示唆しているわけではないことは既に明らかだろう。(続く)