久しぶりに出張。ケータイでこれを書いているが、ここまで打ちこんでもうイヤになった。
マセガキだった中学生のとき以来、何十年ぶりかで接した本書だが、いくら読んでも昔の記憶がよみがえってこない。おかげで新鮮な「発見」がいくつかある。
まず、ボヴァリー夫人が3人いるとは知らなかった。医師の母と先妻、そして主人公のエンマ。エンマが医師と結婚してボヴァリー夫人となるまでのいきさつは、式の模様などもふくめて丹念に描かれている。現代の作家ならあっさり片づけそうな箇所で、ほとんどダイグレッションと言ってもいいほどだが、この「脱線」には意味がある。これだけじっくり導入部を書きこんでいるからこそ、やがてエンマの性格描写が始まったとき、やはり相当な紙幅が割かれていることに違和感を覚えないのだ。
エンマが小説や雑誌を読んでロマンスにあこがれ、いわば恋に恋するようになるくだりは、現代の基準に照らせば牧歌的でほほえましい。平凡な夫に退屈し、結婚生活に不満を覚えるという設定に至っては、もはや陳腐とさえ言えるかもしれない。だが、これは19世紀中葉の小説なのだ。当時の読者にしてみれば、夫人があとで過ちを犯す必然性を充分感じとったことだろう。
人物造形を通じて「不倫の必然性」を導く技法は、当時としてはごく普通のものだったのかもしれないが、男と女が簡単にくっついて離れる現代の小説を読み馴れた目で見ると、少しも退屈でないどころか、かえって新鮮にさえ感じる。と同時に、懐かしくもある。人間の性格から必然的に事件が起こるという流れは、シェイクスピア悲劇にも通じるフィクションの原型ではないだろうか。
…何だか支離滅裂になってきた。ケータイはやはり文章には向いていない。ほかにも気のついた点はあるが、今日はこの辺でおしまいにしよう。