ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Louise Douglas の "The Love of My Life"(2)

 ぼくはおとといの雑感でこう書いた。「少なくとも現代文学において、大衆小説と純文学の違いは何なのか。今やナンセンスな問題かもしれないが、この "The Love of My Life" を読みながらボチボチ考えてみたい」。
 が、じつはこの問題については、すでに7月16日の日記で Elin Hilderbrand の "A Summer Affair" を出しにして、いつものようにこんな独断と偏見を述べている。「男女の恋愛を描きつつ、たとえばロレンスのように愛の本質に迫ったり、グリーンのように倫理の問題に移行したり、といった人間に関する深い洞察が示されるのが純文学、でなければ大衆小説、と分類できるかもしれない」。(もちろんこれは恋愛小説の場合にかぎった話だ)。
 この自己流の基準に従うと、"The Love of My Life" はやはり大衆小説である。たしかに「愛と喪失、そして再生の物語として」大いに楽しむことはできるのだが、これを読んだからといって、なるほど人間にはこんな側面があったのか、と目から鱗が落ちるような真実を教えられることはない。
 さらに言えば、「ありきたりの筋書き」、「月並みなキャラクターで心理描写も型どおり」という点も大衆小説の特徴ではないだろうか。もちろん、「現在と過去の事件が交互に進行し、それがほぼ同時にクライマックスを迎えたのちに合流、一気に終幕へとなだれこむ構成」は非常にみごとである。が、逆に言えば、もしこの構成の妙がなければ、本書の底の浅さはあまりにも明白だったはずだ。
 一方、今年のブッカー賞のロングリストに選ばれた Ed O'Loughlin の "Not Untrue and Not Unkind" について、ぼくはこう思った。「ひょっとしたら現代文学全体にかかわることかもしれないが、ここにあるものは結局、個人の感傷に過ぎないのではないか」。もしこの感想が同書の本質を正しくとらえているとすれば、同書もまた、ぼく流の定義によれば大衆小説ということになる。
 ただし、"Not Untrue and Not Unkind" における感傷は、「いわば匂いたつように描かれている点がすばらしい」。それに較べ、"The Love of My Life" はその紋切り型ゆえに「文学の香り」が乏しいのだけれど、これを煎じつめると、両書の差はしょせん「香りの問題」になってしまう。
 心の痛みというテーマとしては、ブッカー賞候補作も大衆小説も五十歩百歩。そのテーマをどんな手法で描くか、もっと端的に言えば、紋切り型なのか工夫を凝らすのか、それによって両者の差が生まれる。 "Not Untrue and Not Unkind" と "The Love of My Life" を読み較べたかぎり、それがどうやら冒頭の問いへの答えになっていそうである。
 とはいえ、純文学と大衆小説の違いが「香りの問題」、つまり方法論の問題だけというのも何だか釈然としない。これについては、機会があればまたいつか考えてみたい。