ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

A. N. Wilson の "Winnie and Wolf"(2)

 本書の感想は一連の雑感と昨日のレビューで書きつくしたが、これを読んでいるうちに思い出したことがある。先月、Travis Holland の "The Archivist's Story" をだしにして純文学と大衆小説の違いというナンセンスな問題に取り組んだとき、ぼくは「心理重視型の純文学とストーリー重視型の大衆小説」という「かなり図式的な暴論」に達したあと、こう締めくくった。「こんな分類をしてどんな意味があるのか自分でも大いに疑問だが、じつは図式化してみると、ぼくが楽しんでいる現代小説の要素は、二つのうちのどちらかに属していることが多いことに気がつく。だが、たとえばドストエフスキーオーウェルなどには、その二つとはまた異なる面白さがあった。この問題については、機会があればいつか考えてみたい」。
 で、ここでやっとその機会が訪れたのだ。本書については今までさんざん不満を述べてきたが、それは結局、作者がヒトラーやナチズムという重大な問題を扱いながら常識的な解釈に終始しているため、「本書からは、たとえばハンナ・アレントやジョージ・スタイナーの著作を読んでいて覚えるような知的興奮はまったく得られない」という点に尽きる。ふたたび言おう。「スタイナーの『青ひげの城にて』によれば、強制収容所の将校たちは、バッハの音楽を楽しんだ直後にユダヤ人をガス室に送りこんでいたという。偉大な文化が何ゆえに蛮行の歯止めとならなかったのか。そういう根本的な問題を追求した作品であってこそ、初めて知的興奮を味わうことができるのだ」。
 そしてこの知的興奮こそ、登場人物の心理の面白さでもストーリーの面白さでもない、ドストエフスキーオーウェルなどの小説に充ち満ちている「異なる面白さ」の正体なのである。今日その詳細について論じる時間はとてもないが、有名な大審問官説話ひとつ取ってもピンとくるのではないだろうか。ついでに言えば、ドストエフスキーの作品でいちばん最近読んだ『白痴』には三つの要素がすべてそろっている。傑作たるゆえんのひとつである。http://d.hatena.ne.jp/sakihidemi/20080821
 だが、"Winnie and Wolf" にかぎらず、現代の小説を読んでいて知的興奮を覚えることは本当に少なくなってしまった。これはいったいなぜなのか。どうも単なる巡り合わせだけの問題ではないような気がする。このことについては、いつかまた考えてみようと思う。