ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Colum McCann の "Fishing the Sloe-Black River"(2)

 前々回の雑感の続きで、第8話以後とくに印象深かったものを挙げると、昨日のレビューにも書いた「アイルランド版『銀河鉄道の夜』」とも言うべき第10話 "Around the Bend And Back Again"。ある若い娘が主人公で、星の大好きな父親が列車の車両を買い取り、アイルランドの田舎、野原のまん中に設置、屋根に据えつけた望遠鏡を使って星図の作成にいそしんでいた。が、交通事故で両親は死亡、やがて娘は精神に異常をきたし…という話。「場面転換が鮮やかで、スピード感あふれるテンポのいい文体で過去と現在が交錯」、娘が「心に秘めた…こだわりを…行動で一気に吐露する」様子が描かれ、その激しいアクションシーンはこの短編集の白眉のひとつと言ってよい。
 その前の第9話が表題作で、分量はたった4ページだ。舞台は同じくアイルランドの田舎町。奥さん連中が川で釣りをしているが釣果はなし。一方、亭主たちはサッカーの試合に出ているが連戦連敗中…。ぼくはこのショートショートを忘年会の直前、会場近くの喫茶店で読み、しばし呆然となった。しみじみと迫ってくるこの喪失感、挫折感、徒労感はいったい何なのか…。
 忘年会はそれなりに楽しかったけれど疲れた。で、流れ解散となってひとり駅へ向かう途中、交差点で信号が青になるのを待っていたら、この短編で描かれている「喪失感、挫折感、徒労感」がどっと押し寄せてきた。そうだ、今この瞬間をもし小説で表現するとしたら、たしかにあんなふうに書くのがいちばんだろうな…。
 話は変わるが、ぼくはこのところ、BGMに『フィガロの結婚』ばかり聴いている。おかげで夜中に目を覚ましたときも、あの陽気な旋律がふと耳に響いてくる。と同時に、木山捷平の詩『五十年』も心にうかぶ。「濡縁におき忘れた下駄に雨がふつてゐるやうな / どうせ濡れだしたものならもつと濡らしておいてやれと言ふやうな / そんな具合にして僕の五十年も暮れようとしてゐた」。すると、あの愉快この上ない『フィガロの結婚』がたまらなく切ない曲に聞こえる。…そんな心境に近い感覚があの交差点でぼくを襲ってきたのだった。