ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Janice Y.K.Lee の "The Piano Teacher"(6) 

 昨日で本当におしまいにしようと思ったが、今日帰宅して今までの感想を読みかえしているうちに、性懲りもなくもう1回だけ補足したくなった。
 ぼくの本書にたいする小説としての評価はレビューと昨日の日記に尽きているが、「ジャニス・リーはとんでもない問題作を書いてくれたものだ」とおととい述べたのは、その文脈から明らかなように、本書が小説としての出来不出来にかかわらず、政治問題化しそうな火種をはらんでいる、という意味である。これは、文学作品として不幸なことと言わざるをえない。ジャニス・リーはハーバード大学卒ということだが、それほどの才女なら、本書がそんな不幸な道をたどりそうなことくらい予見できたはずだ。それゆえ、あらかじめ「火消し」の工夫をほどこしても、つまり巻末に参考文献を列記してもよかったのではないか、となおさら思う。その努力を怠っている点に、彼女は「日本人のイメージを故意におとしめようと」しているのだろうか、という「邪推」を許す余地がある。
 ひるがえって、ここには「文学と政治」という昔から定番の問題がからんでいる。ぼくは洋書オタクなので、英語で書かれている小説なら「千客歓迎」だが、政治的プロパガンダまるだしの作品だけは敬遠。本書がそんな駄作だと断じるつもりはないが、どうせ政治問題に踏みこむなら、ドストエフスキーオーウェル全体主義の根源に迫ったような哲学的追求がなければ中途半端で食い足りない。戦争文学にかぎっても、『誰がために鐘は鳴る』や『カタロニア讃歌』、Irene Nemirovsky の "Suite Francaise" のような傑作には、人間の本質について深く考えさせられる点が多々ある。ところが、この "The Piano Teacher" の場合、「『鬼畜のごとき日本兵』というイメージだけが読者の頭に残ってしまう」のが関の山。日本軍による蛮行が事実あったとして、なぜそれが起きたのかという点を掘り起こさなければ人間の本質は見えない。いや、原因は明らかで、日本兵が「すべて鬼畜獣人」だったからだ、とジャニス・リーは言いたげだが、そういう人間の「ステロタイプ化」は「天使でも獣でもない」という「人間の本質を見失った証左である」。
 パスカルの言葉を続けよう。「人間は天使でも獣でもない。そして不幸なことに、天使のまねをしようと思うと、獣になってしまう」。
 ぼくは一昨年の秋から去年にかけて、「"Moby-Dick" と『闇の力』」と題した一連の駄文をこの日記で21回も書き連ねたが、そこでも上のパスカル箴言を何度か引用した。メルヴィルの『白鯨』には、人間が「天使のまねをしようと思うと、獣になってしまう」過程が如実に示されている。同書はまさに戦争や革命、テロの絶えない近現代の縮図であり、ドストエフスキーオーウェルなどを読みあわせると、人間を万単位、十万単位で虐殺するためには宗教や○○主義という信念や理念が必要だとしか思えない。そういう恐ろしい人間の悲劇的な本質に迫ってこそ、初めて真の政治小説たりうるのではないだろうか。その点、日本兵を「ステロタイプ化」するあまり、「戦争がなぜ起きるのかといった本質的な追求」を忘れた本書は、「政治問題化しそうな火種をはらんでいる」だけで、何ら知的興奮を呼びさますものではない。これが本書の最大の欠点である。