第3部の中ほどまで読み進み、ようやく全体像が見えてきた。核にあるのは、ニューヨークの今はなき世界貿易センターのツインタワーのあいだを綱渡りした男の話。どうも実話くさいなと思って読んでいたら写真が載っていた。そこでネットを検索すると、1974年8月7日、フランスの大道芸人フィリップ・プティが「快挙」を成し遂げ、それを映画化したのが2008年度アカデミー賞最優秀ドキュメンタリー賞受賞作品、『マン・オン・ワイヤー』とのこと。いやはや、無知もいいところでまったくお恥ずかしい。
ただ、ぼくが連想したのは往年の名画『輪舞』である。シュニッツラーの原作は未読だが、マックス・オフェルス監督作品のほうならテレビで観たことがある。詳細は忘れてしまったが、大好きなシモーヌ・シニョレが出てきたことと、エピソードごとに入れ替わり立ち替わり中心人物が交代してかなり楽しかったことだけ憶えている。あの輪舞方式に近いスタイルが本書でも用いられているのだ。
で、輪の中心にあるのが「綱渡り事件」というわけだが、それは前回ぼくが予想したような、いくつかの流れを一つに収斂させるものではなく、むしろ、事件を目撃したり耳にしたりした人々の物語が、それぞれ独立したエピソードのまま終わりそうである。つまり輪舞方式だが、「独立した」といってもまったく無関係ではなく、ちょうど旧作の短編集 "Fishing the Sloe-Black River" と同じように、本書も「人生のいろいろな局面で感情が一瞬結晶化する話を集めたもの」ではないか、という気がしてきた。
たとえば、プティという実名はまだ出てこないが、ツインタワーのあいだを綱渡りした男にとって、事件は人生で最高の瞬間となっている。同様に、「最高」とは言えないにしても、少なくとも各人物にとって生涯決して忘れえぬ瞬間がここでは次々に描かれている。ネタばらしは控えたいが、前回の雑感でふれた、若いころのブラピのような青年の身に突然降りかかった事件もそうだし、同じく第1部で、ヴェトナム戦争で息子が戦死した知らせを母親がニューヨークの自宅で軍曹から直接聞く場面もそう。
つまり本書は、人生の忘れえぬ瞬間を描いたやや長めの短編を輪舞方式でつないだもの、と言えるかもしれない。しかしぼくの予想が外れるのは毎度のことなので、さてどうなりますか。