ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"The Children's Book" 雑感(6)

 連日、公私ともに多忙を極め、日が暮れるとぐったり。なかなか読書に時間が割けず、おかげでまだ本書も読みおわっていない。こんなときでもクイクイ読める本ならページが進むのだが、せっかく第2部の終盤で大いに盛り上がったのに、第3部に入るとまたもや主筋とは関係のない傍流(?)の細部描写がえんえんと続き、正直言ってウンザリしている。…なんて感想は素人文学ファンのたわごとで、熱心なバイアット・ファンなら面白くてたまらないのかもしれないけれど、このくだりがぼくの好みでないことは確かだ。
 まず、時代が20世紀初頭へと移り変わり、当時の人々にとっての子供時代、ヴィクトリア朝時代への郷愁が顕著に認められた、という説明があるのは前回述べたとおりだが、この特色が物語そのものにどう反映されているのかよくわからない。第2部に登場した子供たちの多くは今や成人して自立、それぞれ成長を遂げると同時に、おたがいの関係も変化している。その成長や変化と時代背景の関係がコマギレに読んでいるせいか、どうもピンとこないのだ。ミもフタもない言い方をすれば、子供の成長物語なら、べつにほかの時代でもいいのではないかしらん。いやいや、これは単なる成長物語ではなくて、じつは…という展開を期待しながら読んでいる。
 退屈な原因はほかにもある。たとえば婦人参政権運動の激化に代表されるような時代の流れを紹介するのはいいのだが、その説明が細かすぎてフィクション部分とのメリハリに欠ける。メリハリがないと言えば、第2部に登場した大人たちのその後の変貌にしても、子供世代の成長や変化にしても、ほとんど同じようなウェイトで詳しく綴られる。ちょうど第2部で、「いろいろな縦糸横糸が複雑にからみあい、まるでタペストリーのようにひとつひとつの模様を織りなしていく」のと同様、ここでもモザイク、またモザイクの連続なのだ。枝葉末節というより、一枚一枚、葉の葉脈が丹念に描かれているような印象で、それがもしかしたらバイアット・ファンにはたまらないのかもしれないが、ぼくにはもっと「物語のドライブ感覚」が得られる、つまり大きな幹のある小説のほうが好ましい。
 もちろん、劇的と言える事件もやがて起こる。しかしまあ、それまでぼくは忍の一字だった。これからやっと第3部も終盤なので、「まだまだ大きな仕掛け」があることを期待したい。その結果、子供世代の成長と変化にどんな意味があるのかも見届けたいところだ。