ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

A. S. Byatt の "The Children's Book"(2)

 本書の中間報告として、これは「うぶな青少年が何らかの苦しい体験を経ることによって否応なく大人へと成長する」、「単なるイニシエイションもの」ではなく、「この先、まだまだ大きな仕掛け」があるはずで、 その「仕掛け」を通じて「子供世代の成長と変化にどんな意味があるのかも見届けたい」という期待を述べたが、残念ながらその期待は大外れ。ネタばらしになるので詳しくは書けないが、読了後、何だこりゃ、とズッコケてしまった。
 なるほど、世界大戦という大事件で締めくくれば、ますます「単なるイニシエイションもの」でなくなることはたしかだが、本書の場合、戦争は「大きな仕掛け」たりえていない。子供世代が「人生の現実に直面して各人各様、それまでの生き方を一転させ」たあと、「その変化をすべて飲みこむかのように戦争が勃発、彼らはさらに変身せざるをえない」とぼくはレビューに書いたが、戦争によって個人の運命が左右されるのはあまりにも当然の話で、小説のテーマとしても古すぎるのではないか。
 同じ結びにしても、これでもし、イギリスが、ヨーロッパ諸国が第一次大戦へと突入せざるをえなくなった流れが背景にあれば、個人の運命を超えた国家全体、さらには西欧文化の運命ということで話は一段と大きくなる。ところが、本書を読んでもその流れはつかめない。19世紀末から20世紀初頭までの変遷について膨大な紙幅を割いているにもかかわらず、戦争に至る必然性は少しも読みとれない。何だか知らないうちに大戦争が勃発してしまった…そんな印象しか残らないのだ。
 これと対照的なのがトーマス・マンの作品で、『ブッデンブローク家の人々』と『魔の山』を続けて読めば、19世紀末から第一次大戦に至るまでドイツが、少なくともトーマス・マンの目からながめたドイツがたどった道を近代精神史の大きな流れとして理解することができる。それはまた、ドイツ側から見た戦争の必然性でもある。http://d.hatena.ne.jp/sakihidemi/20071202
 バイアットに話を戻すと、本書の場合、戦争はただ単に個人の運命を大きく左右するものでしかない。まあ、べつにそんな結論でもかまわないのだが、せっかく第2部で、大人にしても子供にしても、「斜陽の射した大英帝国黄金時代の末期を象徴するかのように光と影、表と裏の顔」をもつ人物を登場させ、個人の運命に時代の大きな流れをうまく絡ませていただけに竜頭蛇尾。戦争はいわば添え物で、個人的な変化だけ最後に残ってしまったことに、「何だこりゃ、とズッコケてしまった」。
 以上はぼくの深読みかもしれないけれど、たとえば途中、いくつか挿入されている女流童話作家のフェアリーテールなど、読後にふりかえってみれば、あれはいったい何だったのか、どんな意味があったのかと誰しも疑問に思うのではないだろうか。ほかにも「危険な秘密の関係」など、いくらでも面白くなりそうな要素がたくさんあるのに、「大いに盛りあがったかと思うと…尻切れトンボに終わっている」。「小さな枝葉」を次から次に見せられたあげく、「子供の成長と変化」が「大きな幹」だったなんて、大山鳴動して鼠一匹。熱心なバイアット・ファンからは座布団が飛んできそうだが、恥ずかしながら未読の彼女の旧作を読む気力がまだまだわいてきません。