ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"The Bishop's Man" 雑感(3)

 今日は朝のうち「自宅残業」 に追われたが、夕方ジョギングに出かけるまでずっと本書に取り組み、何とか第2部まで読み進んだ。で、第3部の冒頭をちらっと覗くと、いよいよ大事件が勃発しそうな兆し。つまり、ちょうど半分まで長いイントロだったことになるわけだが、少しも間延びした印象がないどころか、そうそう、小説はこうでなくっちゃ、と思わず小膝を叩きたくなる場面の連続でとても楽しい。
 前回、現在のストーリーが淡々と進むと書いたが、もう少し正確に言うと全体が司祭の回想で成り立っている。何やら大事件が起きたあと、それに至るまでのプロセスをふりかえるのが現在のメインストーリー。その合間に、若い頃、ホンジュラスに赴任していた当時の日記が挿入され、第2部ではさらに、司祭がトラブルシューターとして事情を聴取した他の神父たちとのやりとりも混じる。つまり三重の回想が交錯する展開である。
 で、昨日と同じセリフだが、どの回想にも「トラブルの匂い」が充ち満ちている。それがまず楽しい。ホンジュラス時代の事件は輪郭がうっすら見えてきた。司祭が聖職者の身でありながら関係したかもしれない女性の話がチラチラ出る。メインストーリーのほうは皆目不明。わりと親密になった女性もいるのだが、事件には直接関係ないかも。
 ともあれ、「匂い」だけで惹きつけるというのは相当な筆力だと思うが、今回ぼくがいちばん感心したのは司祭の性格作りである。簡単に言えば、生身の人間としてよく描けているのだ。たとえば彼は、自分をトラブルシューターとして採用した司教をはじめ、他人の偽善に敏感なのだが、と同時に自分の心の中にある偽善にも気づいている。それを承知のうえで、問題を起こした神父たちの偽善に怒りを覚える。このような正義感と内省の揺れ動きこそ、「そうそう、小説はこうでなくっちゃ」という見本なのだ。
 要するに、自分は聖職者だが、本当に聖職者にふさわしい人間なのか、という疑いがこの司祭にはある。その疑いはどうやらホンジュラス事件に発しているようで、こうした人間の本質にかかわる「トラブルの匂い」が漂ってくる小説は最近では珍しいと思う。ほかにも、司祭はとにかく聖職者ということで独身。当然、孤独や悲哀を感じることもあり、そういう適度の感傷がこの小説に文字どおり潤いを与えている。
 …これから夕食だが、いつも土曜の夜はワインを飲むことにしているので、第3部に取りかかるのは明日になりそうだ。さて、どうなりますか、ワクワク!