ぼくの数少ない特技のひとつに「歩き読み」「立ち読み」というのがある。通勤時のバスや電車の中はもちろん、二宮金次郎さんよろしく歩きながら本を読んだり、エスカレーターに乗りながら読んだりする「スゴ技」だ。今日もスーパーのレジに並んでいるとき、店員さんに声をかけられるまで本書を読んでいた。
さほどに夢中になったのは、クェーカー教徒の Samuel がいよいよ西部に乗りこみ、コマンチ族とカイオワ族との初交渉に臨んだ場面がとても面白かったからだ。昨日は Samuel に「時代背景の説明役」という役割があることを指摘したが、この場面に出くわしたとき、「文学的な深みはさほどでもない」とバカにした本書に一定の深みをもたらしているのも Samuel だな、という気がしてきた。
Samuel はインディアンの酋長たちに襲撃を禁じ、the Red River の北側から一歩も外に出てはならぬと言う。(脱線だが、the Red River って当然、「赤い河」のことなんでしょうね)。その言いぐさがクェーカー教徒とはいえ高圧的、ゆえに西欧人的で、大げさに言えば正義の追求とか善の強制とか、はたまた啓蒙思想の押し売りなどが連想され、その点がじつに面白く、つい読みふけってしまった。
つまり、先祖伝来の土地で狩猟採集生活をしているインディアンに対し、農業の効用を説き聞かせ、ひいては文明生活へ導こうとしているのが Samuel なのであり、クェーカー教徒のくせになんと、襲撃は力ずくでも阻止すると言明。その問答無用の姿勢がいかにも理想主義者らしく、ふむふむ、この問題をもっと突っこんで書けば「文学的な深み」が出てくるのにな、とニヤニヤしてしまったのである。
ともあれ、Samue と Britt が合流するなど、話は予想どおりながらどんどん広がっている。その過程で本書の美点にも気がついた。明日も楽しみだ。