ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Paulette Jiles の “The Color of Lightning”(3)

 Rana Dasgupta の "Solo" の仕掛けがやっとわかってきたところだが、やっぱり昨日の続きを書こう。
 白人によるインディアン迫害の歴史を考えれば、白人はインディアンの襲撃に寛容であらねばならぬ、それゆえ、「平和と友愛の精神で臨む努力を続ければ理解が得られるはずだ」というのがクェーカー教徒の幹部の言い分である。いちおう筋が通っているようだが、剥いだばかりの人間の頭の皮を投げつけられるという現実に直面した Britt は、そんな寛容、平和と友愛の精神なんぞ何の役にも立たぬことを痛感している。それは、the Warren Wagon Train Massacre 以後、平和政策を放棄してインディアンとの戦争に踏み切ったグラント大統領も同じことだろう。どちらも「平和主義の限界を露呈」した例である。
 平和の定義としていろいろな説があるようだが、ウェブスター第3インターナショナル辞典によれば、freedom from civil clamor and confusion, a tranquil state of freedom from outside disturbance and harassment, absence of hostilities or war といったあたりが今の問題に関係しそうだ。当たり前の話だが、要するに、国内外において戦争がない、争いがないことが平和なのである。
 この平和のありがたさを十分に享受しているぼくは幸か不幸か、今まで Britt やグラント大統領のように厳しい現実に直面したことがない。ただ、頭の中ではそれを想像することができる。本書の時代背景は南北戦争の末期だが、たとえば奴隷制度を廃止するために戦争以外の方法はあったのだろうか。ユダヤ人の虐殺や旧ソ連における粛清などをやめさせるためには、「寛容、平和と友愛の精神」で臨めばよかったのだろうか。ちょっと考えただけでも、「平和主義の限界を露呈」した事例はいくつも思いうかぶ。つまり、虐殺や蛮行をなくすためには(いつもではないが)戦争という野蛮な手段によらねばならない場合がある。それが「平和主義の限界」である。ベルジャーエフも言っている。「この世から殺人をなくすために、また人類にとって最も価値あるものを守るためにあえてひとを殺さなければならない場合がある」。(『人間の運命』野口啓祐訳)
 ぼくはこの問題について、『"Moby-Dick" と「闇の力」』と題した一連の駄文をこのブログでえんえんと綴ったので(第1回は08年10月29日 http://d.hatena.ne.jp/sakihidemi/20081029)、今日は入り口だけで中には踏みこまないことにするが、それにしても現代の作品を読んでいて、こういう重大な倫理の問題に(副筋ながら)ふれたものに出くわしたのは本当に久しぶりだ。「副筋ながら」というのが本書の残念なところであり、それゆえ、ギラー賞のショートリストにも残らなかったのはむべなるかなと思う。
 先日、ある友人に「なぜ日本文学を読まないのか」と尋ねられ、そのときは話が複雑になるのを心配して黙っていたが、ここで少し独断と偏見を述べると、日本の現代文学で以上のような倫理の問題を扱った作品はあるのだろうか。ぼくはかなり疑問に思っている。その友人の薦めで、非常に遅まきながら『海辺のカフカ』を寝床でボチボチ読んでいるけれど、たしかにとても面白い。だけど、倫理の問題はどうなのかな。まだ途中なので断言はしないが、とにかくぼくがこの10年、海外文学に凝っているのは、英語で小説を読むのが好きということもあるけれど、本書のような問題作に出くわす確率が日本文学より高いのでは、というのも理由のひとつである。(ほかにもあるけどね。この件については、いつかまたお話しましょう)。