ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Alan Hollinghurst の “The Stranger's Child”(3)

 雑感(4)の訂正をしておこう。本書の第4部を読みはじめたとき、先のほうをパラパラめくって、これでもう最後だなと思ったのだが、短いながら、さらに第5部があったのにはビックリした。そこつ者のぼくらしいミスだ。
 各部とも、「それぞれ山となる事件はまずまず面白いのだが、何だかイントロだけ読まされている感じ」で「いささか消化不良」。「第4部でぜんぶ、すっきりするんでしょうか」と述べた期待どおり、それまでいくつか疑問に思っていた事実関係は、ここでほぼ明らかになった。そのプロセスはかなり回りくどく、ほんとに「胃がもたれる」ほどだが、それなりの面白さはある。ぼくの趣味ではないが、こういう技法や表現を好む読者も当然いるはずだ。
 で、この第4部で終了かと思いきや、第5部でいきなり現代に話が飛び、ここでもまた「過去の再構成、追体験」の試みがつづく。しかも、その対象として、第4部さえもふくまれる。この執拗なまでに「重層的な構造」は、なかなかいい。ちょうど、映画「インセプション」で夢の中の夢がずっとつづき、グリコのランナーがどこまでも小さくなるみたい、と言えばわかりやすいだろう。
 だけど、ぼくが共感できたのはそこまで。青年詩人 Cecil の正体を解き明かそうとするのはいいが、「そもそも、解明に値するほどの正体なのか」。一人のゲイを追求することにより、ゲイが社会的に認知されていなかった大昔から、同性結婚が法律で認められている現代まで、おおよそ百年の歴史をふりかえる、というねらいがあるのかもしれないけれど、それにしても、だから何なんだ、という気がする。ぼくがゲイではないということとはべつに、ぼくはここで人生にかんする深い洞察をついに発見できなかった。
 とはいえ、コミカルな筆致もふくめて「精緻をきわめた描写」はほんとうに見事。物語の「重層的な構造」とあわせ、「耽美主義、芸術至上主義の立場から」本書を高く評価する向きがあってもおかしくない。いかにもブッカー賞的な作品ということで、少なくともショートリストにはのこるだろうし、「ひょっとしたら、栄冠に輝くかもしれない」。読み手のスタンスが問われそうだ。