ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Arthur Phillips の “The Tragedy of Arthur” (3)

 「作者のしたたかな計算」は、「シェイクスピア劇の序文」の結びもからも読みとれる。'What sort of story is this? Not quite a tragedy, not for anyone else, anyhow. Not quite a comedy, not for me, anyhow. A problem play, I suppose we could call it. .... It all depends on how you like the book. If you think I mean it, it reads a certain way. If you think I don't, it reads another. Just like the play. (pp.255-256)
 これが作者自身ではなく、作者と同名の作家 Arthur Phillips がものした「序文」ということだから、話はややっこしい。とはいえ、この「自作批評」はかなり本書の本質を衝いていると思う。これはあなたの見方次第で、いかようにも読める本ですよ、という作者のメッセージが伝わってくるようではないか。
 英米の読者なら、シェイクスピアが偉大な文学者であったことは、この主人公も言うように、日常の言語体験から十分に実感できるはずだ。べつに調べたわけではないが、贋作なんぞ当たり前、ゴマンとあることだろう。いかに本物そっくりに仕立て上げようと、単なるパスティーシュなら、柳の下の何十匹目かのドジョウ。その陳腐さを解消すべく、作者は「シェイクスピア劇のパスティーシュを導入するための自伝小説という設定」を思いついたのかもしれない。このとき、英米にもシェイクスピアにかんして「ど素人」がいる現実を踏まえ、一般読者にとっての敷居を低くすべく、主人公をシェイクスピアに無関心な人物としたのではないか、というのがぼくの推測である。つまり、「読者の反応まで計算にいれた用意周到な設定」である。
 その自伝小説は「要するにホームドラマ」だ。むろん、上の「自作批評」どおり、いろいろな読み方があってしかるべきだが、主人公の「父親および双子の姉への思い……愛と憎しみ、怒り、そしてまた愛」という点だけはどうしても外せない。文体的にはその複雑な感情を反映した、かなり回りくどいもので、ぼくは正直言って退屈だったが、芸術至上主義の立場からすれば、この心理描写を高く評価する人がいてもべつに不思議ではない。
 しかも、「シェイクスピア劇のパスティーシュを導入するための自伝小説という設定は、作者自身の人生のパスティーシュであるとも言え、家族愛という平凡なテーマを『二重のパスティーシュ』によって表現したところに非凡な着想が認められる」。ますますもって、これは「大変な労作」ではないか。それなのに、どうして☆☆☆★という評価なのか。……この続きはまた後日。