ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Ismail Kadare の “The Palace of Dreams” (2)

 私的な〈世界文学の夏〉シリーズ第2弾だったが、今回もまた、「こういう作品を平和な時代に読んだあと、星印で評価することに何の意味があるのだろう……と疑問を感じながら採点してしまった。英米の最新作ではあまり出会うことのない世界がここには広がっている」。
 本書が書かれた1981年当時のアルバニアのことをちょっと調べてみると、よろず無知なぼくでも名前だけは知っていたホッジャが最高権力者で、共産党による一党独裁が敷かれ、ソ連や中国、東欧各国とも絶縁して鎖国状態だったという。今とちがって当時は、非常に特殊な全体主義国家だったわけだ。
 このことは本書を理解するうえで、いちおう頭にいれておいたほうがいいだろう。(じつはぼくも少しだけ知っていた)。ただし、これが「恐怖の全体主義体制と、それを支える情報機関を諷刺した寓話小説」であることは、かなり早い段階で察しがつくので、そういう意味では予備知識は要らない。むしろ、「なんとなくミエミエなのが興ざめ」なくらい、本書の「設定や筋立ての意図」は明確そのものである。
 だから、平和ボケしたぼくの好みとしては、冒頭のミステリアスな雰囲気がもっともっと続いてほしかった。たとえばゆうべ、たまたま久しぶりに観た『去年マリエンバートで』にも怪しい雰囲気の宮殿が出てきたけれど、何だかわけがわからない非現実的なおもしろさという点では、あちらのほうが本書より数等上だろう。
 また、仕掛けがわかってしまうと、どんな事件が起きても「緊張が高まらずサスペンスに乏しい」のは当然だし、同じく全体主義の恐怖を描いた『悪霊』や『審判』、『1984年』といった過去の名作がどうしても頭にうかび、あっちのほうがずっと怖かったなあ、今読んでもたぶん怖いだろうな、とぼんやり考えてしまう。
 だが一方、それは極楽トンボのノーテンキな感想である。「言論の自由のない国に住む作家にとっては、こういう小説を書くこと自体が勇敢な冒険であり、国民の声を代弁するものであることを忘れてはなるまい」。だからこそ、本書の理解には上の背景知識が必要なのだ。ぼくは今まで知らなかったが、Kadare は1990年にフランスに政治亡命している。そんな作家が恐怖政治の国で真剣に書いた作品を読みながら、「なんとなくミエミエなのが興ざめ」などと感想を述べるとは、いやはや、平和ボケした極楽トンボもきわまれり。われながら、呆れてものが言えない。