ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Jeet Thavil の “Narcoplolis” (2)

 今日から愛媛の田舎に帰省。わが街、宇和島に1軒だけあるネットカフェでこれを書いている。途中松山に寄り、いつものように<つるちゃん>でうどんを食べてから、大街道のサンシャインで『プロメテウス』を鑑賞。3D映画を観るのは初めてだったのでビックリしたが、今月観た映画の中では『硫黄島からの手紙』がいちばん心に残っている。それにしても、松山はいい街だ。学生時代、友人のアパートに転がりこんで1ヵ月近く居候させてもらったこともある。数時間いるだけでも、ほんとうになつかしい。
 ……などと感傷にふけっているわけは、やっとレビューの落穂ひろいができるようになった本書 "Narcopolis" も本質的には、意外に感傷的な作品ではないかと思うからだ。むろん、文体は非常に凝ったものだし、視点が次々に変わり、「夢と現実、記憶と幻想が入り混じった」複雑な構成になっているので、表面上はそんな印象を受けない。だが、冒頭の文が示すように、これはボンベイという街そのものが主人公の小説である。それも現在のムンバイではなく、「1980年代初期に実在したかもしれぬ<麻薬都市>ボンベイ。それを紙上で再現しようとする試み」が本書なのである。そういう試みは結局、街を愛する心、なつかしむ気持ちの端的な表現なのではないだろうか。
 そう考えると自分の好きな街が思い出され、つい評価を甘くしたくなるのだが、どうしても納得できない点がある。「アヘン窟の経営者や客、売人、売春婦」たちが「何を思い、何に苦しみ、どんな夢を見ながら暮らしていたか、その日常生活の断片、人生の断面」は描かれるものの、たとえば Teju Cole の "Open City" の主人公が「私は自分の心を探った」と述懐しているような意味での、本格的な人間の内面検証は見当たらない。"Open City" はその知的な検証に支えられた都市小説でもあったわけだが、"Narcoplolis" のほうは、実験的とも言える技法の裏に感傷がひそんでいる。だからいけない、と言うのではない。感傷まじりでもいいから、「ある時代、ある都市で暮らすことが人間の内面にとってどんな意味があるのか、それを深く掘り下げて」ほしかった。そこが物足りないのだ。
 ぼくもいつか、松山を舞台に "Open City" のような「魂の彷徨」がテーマの都市小説が書けたらいいな、と思います。