ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

W. G. Sebald の “Vertigo” (2)

 はてさてドジなことに、第1章の主人公 Marie Henri Beyle がスタンダールの本名だったとは、裏表紙の紹介記事を読むまで思いもつかなかった。途中、"De L'Amour" が出てきたところでピンとくるべきでしたね。
 それよりヒドイのは、昨日のレビューを書いているときでさえ、第3章の主人公 Dr K がカフカであることに気がつかなかったことだ。レビューを書きおえたあと、上の記事の続きをぼんやりながめているうちに、え、そうだったのか、と愕然とした。あわててネットで確認し、その情報をレビューに盛りこんだあと、ついでに文言も一部訂正した次第だが、あんた、それでもほんとに文学ファンなの、と嗤われても仕方ありませんな。
 でもまあ、救いはある。主人公がスタンダールカフカとわかったからといって解釈そのものに変更はなかったことで、これぞまさしく夜郎自大、唯我独尊、井蛙之見と居直るしかありません。
 その解釈とは、ここで描かれているめまいが「人間存在の本質から発するものかもしれない」というものだ。すなわち、「孤独、疎外、絶望、喪失、悲哀、苦悩、虚無、虚妄、不条理。そういう現実に直面した人間が覚えるめまいである」。むろん「人間存在の本質」をすべて表現したものではないが、少なくとも一面の真理を衝いているのが本書の〈めまい〉ではないだろうか。
 たとえば「スタンダールの失恋と片思いを淡々と綴った第1章」だが、およそ失恋にしろ片思いにしろ、当人にとっては真剣かつ切実な思いであっても、相手にはその思いが負担になったり、あるいはまったく意識にものぼらない無意味なものであったりする。そのことを知って覚えるめまい。そんなめまいが全編のモチーフとなっているのである。雑感では「第1部と(それ以後)の関連性は今までのところ見いだせない」と報告したが、その後「読めば読むほど、タイトルどおり、めまいがしてきそう」になり、第1章はみごとなイントロであったと思います。
 本書は1990年の作品で、最初に英訳が出たのは1999年とのこと。ぼくが英語で海外の純文学を読みはじめたのは2000年の夏からだ。エクセルに打ちこんでいる読書記録を見ると、その夏に読んだドイツの小説は Bernhard Schlink の "The Reader" で、翌年の夏には Thomas Mann の "The Magic Mountain" を読んでいる。W. G. Sebald なんて聞いたこともなかった。今回の "Vertigo" で、ちょっとだけみなさんに追いついたようですね。