連日の疲労のせいか風邪をひきなおし、きょうは早退。寝床にもぐりこむ前に本書の落ち穂拾いをしておこう。
きのうのレビューを読むと、ぼくがいかにもキリスト教に造詣が深そうな印象を受けるかもしれないが、すべて他人の受け売りと、にわか勉強の成果。キリスト教の信者で、イタリアで聖画の修復にたずさわったこともある知人にご教授を願い、ネットでちょっと調べてから「聖書における聖母マリアの記述は……」と書きはじめた。
ぼく自身は聖書をまともに読んだためしがなく、『カラマーゾフ兄弟』の大審問官説話に出てくるキリストなら強烈に憶えているが、聖母マリアのこととなると、まっ先に思い浮かぶのは、モンテヴェルディの『聖母マリアの夕べの祈り』くらい。あれだって、よく理解したうえで聴いたわけではなくBGMにすぎない。
それゆえ、「マリアも聖母である前に、ごくふつうの母親、ふつうの人間だったのだという解釈」を示されても、その真偽のほどはよくわからない。が、常識論として、「マリアに母親としての苦悩があったことは想像に難くない」だろう。
それから、マリアが「神の子イエスから宗教的感化を受け」たのではないかとも思うのだが、これもぼくの勝手な想像で、上の知人には恐れ多くて未確認。専門家には笑われそうだが、それでも「常識論」としてはこの想像、案外当たっていそうな気もする。
……なんだかくだらない話ばかりしているが(いつものことですね)、要するにぼくが言いたいのは、本書における Toibin の解釈は素人の「常識論」の域を出るものではない、ということだ。あの英雄にもこんな人間的側面があったのだと聞かされて、なんだ、そんなこと当たり前すぎて、今さら聞くまでもないと思う。それと似たような感想をいだかずにはいられなかった。
わが子が人類の救世主として処刑されると知ったとき、その母親の胸に去来するものは、はたして「ごくふつうの母親」としての苦しみや悲しみだけなのだろうか。これも素人考えだが、おそらく想像を絶するような葛藤があったのではないかとぼくは思う。「そのあたりの葛藤をじっくり描」いてほしかった、というのが本書にたいする最大の不満である。「想像を絶する」領域にさえ踏みこむのが芸術的イマジネーションのはずだからだ。Colm Toibin はゴヒイキの作家だけになおさら残念です。