ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Tupelo Hassman の “Girlchild” (2)

 いつだったかも書いたことだが、あちらの小説は、おおむね次の3タイプに分かれるような気がする。(1) ストーリー重視型 (2) 表現重視型 (3) テーマ追求型
 さらにといえば、(4) キャラクター重視型 もふくめた4タイプだろうか。
 で、これまた以前の繰り返しになるが、こんな分類にはむろん、ほとんど何の意味もない。分類した結果、何か新しい発見がえられわけではないし、どんな作品にもまずテーマがあり、それを展開するためのストーリーとキャラクター、表現スタイルが常に存在するからだ。
 ただ、上の要素のうち、どれか1つが傑出して印象ぶかいということはあると思う。理想的にはどの要素もすぐれているべきだが、とりわけ(3)の場合、過去の名作があまりにも優秀であるため、現代の作品はどうしても見劣りしてしまうことが多い。たとえば、ドストエフスキートルストイの諸作をおなじテーマで凌駕することなど、とうてい不可能なのではないだろうか。(もちろん、両文豪の作品をテーマのみでとらえることはできないが、それでもそのテーマに圧倒されることは事実である)。
 それほど極端でなくても、この "Girlchild" のように「親子の絆、家族愛、そして通過儀礼をテーマにすえた」作品は数多いはずだ。したがって、「傷ついた純真な少女が家族の愛を支えに大人へと成長する定番の物語」を従来とおなじスタイルで綴っても、よほど奇想天外なストーリーでもないかぎり、おもしろくもなんともない。ましてテーマを深化させることなど望むべくもない。そもそも、このテーマで新たな深層を見いだせるのだろうか。キャラクターにしても、今までの作品と似たり寄ったりになりそうだ。
 となると、ここはひとつ、「よほど奇想天外なストーリー」を思いつくか、表現スタイルに工夫を懲らすしかない。
 ……と作者が考えたかどうかはわからない。が、少なくとも、出来上がった作品は叙述形式がいちばん印象に残るものとなっている。それゆえ、これは表現重視型の小説といえるだろう。具体的には、「点景を楽しむべき」「文学的なコラージュ」なのである。
 が、「中にはピンとこないスケッチもある」し、ストーリー性は明らかに二の次となっている。芸術至上主義といっていいかもしれない。ともあれ、文学ミーハーのぼくには、ちとシンドイ小説でした。