ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Joyce Carol Oates の “A Garden of Earthly Delights” (2)

 きょうからブログ名を〈ビンゴー・キッドの日記〉と改め、ついでにデザインも変更しました。春は新しい命が芽生える季節。気分を一新したくなったからです。
 さて、この "A Garden of Earthly Delights" は、ぼくの〈旧作探訪シリーズ〉の……第4弾。そろそろ数えるのが面倒くさくなってきた。とにかく、よろず不勉強のぼくの書棚には、題名を挙げるのもお恥ずかしい未読の本が山積中。少しずつその山を切り崩していくしかない。ざっと目分量で10年はかかりそうな〈千里一歩シリーズ〉である。それも新刊の追いかけを計算にいれない前提だ。
 Joyce Carol Oates はいまやノーベル賞候補に目されることもある巨匠なので、その作品を専門に研究している英文科の先生方や学生たちも多いことだろう。そういう専門家の立場からすれば、彼女はやはりノーベル賞にふさわしい大作家なのかもしれないが、たった1冊、それもいっとう初期の作品を読んだだけの感触としては、ほんとにそうなのかなと疑問に思う点もある。
 まず、これは多分にぼくの独断と偏見だが、ノーベル文学賞というのは、たとえば人権問題や人種問題などについて政治的・社会的な主義主張をアピールする文学者のほうが受賞しやすいような気がする。その点、本書では、たしかに white trash と呼ばれる貧しい白人の農場季節労働者が中心的な役割を果たしているものの、彼らは作者が「あとがき」で述べているように、いわゆる犠牲者ではない。差別や偏見からの解放といったプロパガンダはみじんもない。あるのは彼らの「生々しい現実」だけだ。それが「そのままアメリカの生活史」となっているところは、もしかしたら〈ノーベル賞ポイント〉かもしれないが、これについては1冊だけでは判断できない。
 つぎに、上とも関連することだが、本書の内容は期待したほど深くはない。人物同士の対立が価値観の衝突によるものではなく、もっぱら感情的な対立に終始しているからだ。それゆえ現象的には、「乱闘やメロドラマ、家庭の悲劇の域を出」るものではない。これでノーベル賞級なのかどうか、この点についてもよくわからない。
 ただし、めっちゃくちゃオモロー!(古いですな)。どこがどうおもしろいのかは、きのうのレビューらしきもので分析したつもりだ。とにかく、ページをめくる前にひと息いれ、ごくりと生唾をのんでから読み進む、なんていう経験はひさしぶりである。こういうおもしろさが〈ノーベル賞ポイント〉だとしたら、まず受賞間違いなしですな。
 ひょっとしたら、「実存の叫び」が聞こえるところが専門家には高く評価されているのかもしれない。なるべく近いうちに第3作以降も読み、その点どうなのか、たしかめてみようと思っている。