ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Italo Calvino の “If on a Winter's Night a Traveler” (3)

 大昔、金井美恵子の『書くことのはじまりにむかって』というエッセイ集を読んだことがある。中身はすっかり失念した。そもそも、あまり熱心に読んだ記憶もないが、書棚の奥に眠っていた中公文庫版をいまパラパラめくっていたら、こんな一節が目についた。
 「わたしの書いている小説というのは、割合うじうじと、小説を書くことについての小説という狭い問題しかあつかっていない……」(p.251)
 彼女が Calvino を読んだことがあるかどうかは知らないが、この「小説を書くことについての小説」というのは、まさに "If on a Winter's Night a Traveler" の評言としてもふさわしいものだ。
 一方、"If on a ..." は「読むことのはじまりにむかって」meditation を進める、「小説を読むことについての小説」でもある。そんな小説を読むとき、読者自身、「小説を読むとはどういうことか」、「この本を読むことにどんな意味があるのか」と考えるのはごく自然の成り行きだろう。
 だが、さらに考えてみれば、その meditation は結局、「生きることのはじまりにむかって」進むものではないのか。「生きるとはどういうことか、生きることにはどんな意味があるのか」という問題と切り離して、ただ読書の問題についてだけ考えることはとうてい不可能だろう。これがぼくの「ガンコな固定観念」である。
 それゆえ、本書のレビューにもぼくはこう書いたのだ。「小説とは何か。小説を書くとはどういうことか。そして小説を読むとは?」という「問いは当然、人生とは何か、人生を生きるとはどういうことか、という究極の問題につながるはずだ……」。「作者の意図はさておき、このメタフィクションを人生のメタファーとして解釈することはいちおう可能だと思う」。
 もちろん、人生にはいろいろな生き方があるように、本書にもさまざまな解釈が成り立つことだろう。これが「万華鏡のように変化するテキスト」だからだ。実際、万華鏡をあつかったエピソードも出てくるほど、本書の大前提には diversity がある。
 が、なにしろガンコな老人ゆえ、ぼくはどうしても上のような固定観念から抜け出すことができない。すると最後は、本書にすこし不満を覚えることになるわけです。