ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Kate Atkinson の “Life After Life” (3)

 「パラレルワールドを提出することで、作者が何を訴えようとしているのか判然としない」とレビューには書いたが、じつはぼくなりに推測していることがある。
 ただ、それを書くとネタバレの恐れあり。いままでの紹介で本書を読みたいと思った方は、……のあいだは飛ばしてください。
 ……
 冒頭、Ursula がミュンヘン(最初、ベルリンと思ったのは勘違いでした)のカフェで 'Führer' にむけて発砲。Ursula pulled the trigger. / Darkness fell. (p.14) とある。この 'Führer' はすぐにヒトラーらしいと察しがつくのだが、終幕 (p.463) でなんとおなじ場面が再現され、ヒトラーが想像どおり 'Führer' として登場。上のくだりもそっくり繰りかえされる。
 一方、Ursula はベルリンで、またロンドンでも大空襲にあう。「とりわけ、後者には相当な紙幅が割かれ、本書の山場となっている」。
 こうした構成を考えれば、もしヒトラーが誰かに殺されていたら悲惨な戦争は起こらなかっただろう、というメッセージが読み取れるのではないか。いわゆる historical if である。逆に言えば、ヒトラーがいたからあんなことになった。この主張もヒストリカル・イフの裏返しである。これがひょっとしたら、作者の訴えたいことかもしれない。
 ただし、なにしろパラレルワールドのことゆえ、終幕にいたるまでに、またべつのヒトラーが登場し、愛人のエヴァを介して Ursula と知りあう。このエピソードを通じて作者が言いたいことは、ぼくにはさっぱりわからない。「矛盾や曖昧な点があるのは当たり前」の話なので、「それぞれのエピソードを理屈ぬきに楽しめばよいということ」かもしれない。
 ……
 それにしても、ぼくは「本書の山場」であるロンドン大空襲のくだりを読むうちに、かなり苛立ちを禁じえなかった。戦争の悲惨さを、なぜパラレルワールドのかたちで訴える必要があるのだろう。戦争とは、ありのままの現実として十分に悲惨なものである。
 ひょっとしたら作者としては、二番煎じ、三番煎じの題材だから趣向を変えたかったのかもしれない。が、もしそうだとしたら、ずいぶん底の浅い物語ということになる。まさかそんなことはないだろう。
 ともあれ、それが「しょせん複数の現実のひとつである以上、生か死かという限界状況ならではの緊迫感に欠ける憾みがある」。ここ数年で読んだ作品とくらべると、たとえば Julie Orringer の "The Invisible Bridge" [☆☆☆☆] における、ドイツ軍によるブタペスト空襲や、Steven Galloway の "The Cellist of Sarajevo" [☆☆☆★★★] における、サラエボ包囲戦時の狙撃シーンなどのほうがはるかに怖かった。
 私見だが、パラレルワールドには、べつに理屈はいらない。「もし……だったら世界はどうなっていただろう」という想像をかきたててくれるだけでいい。まあ、多少、理屈らしきものがあってもいい程度だ。
 それゆえ、きのう紹介したような〈疑似哲学〉も本来はご愛敬のはずなのだが、本書の場合、純然たるエンタテインメントではなく、上のように深刻な内容に「相当な紙幅が割かれ」ている。だからこそ、なぜパラレルワールドをもちいるのか、という疑問につながるわけだ。そんな余計なことを考えなくてもいい、もっと軽い話のほうが「理屈ぬきに楽しめ」たのではないかと思う。