ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

2013年ブッカー賞ロングリスト発表 (2013 Man Booker Prize Longlist)

 どうやら今年のブッカー賞のロングリストが発表されたようですな。見ると、ぼくの「直前予想」で当たったのは、以下にレビューを再録した3冊のみ。まだ読んでいる途中なのに、「今年の大本命かもしれませんよ!」とアドバルーンを上げた Chimamanda Ngozi Adichie の "Americanah" は、みごとに落選してしまった! 逆に、ぼくが泡沫候補くらいにしか考えていなかった Tóibín が入選するとは……。
 ノミネートされた作家のうち、ぼくにとってなじみ深いのは、ご存じ Jhumpa Lahiri と Colum McCann のほか、Charlotte Mendelson である。2008年のオレンジ賞候補作 "When We Were Bad" [☆☆☆★★★] は、昔のレビューを読みかえしてみたところ、けっこう楽しかった記憶がよみがえってきた。
 なお、McCann は下馬評も高かったようだ。例の Eligible サイトで直前に人気が急上昇、Adichie を一気に抜き去っていたので、もしやとは思ったのだが……。
 それから、Tash Aw も気になっていたが、ぼくがわりと買っていた Mohsin Hamid の "How To Get Filthy Rich in Rising Asia" と似たような話らしいのでパスしてしまった。
 ともあれ、13人中7人も未読の作家とは、いつもながら不勉強でイヤになります。

[☆☆☆★★★] 現代の上海版『虚栄の市』、いや「虚妄の市」というべきだろう。題名から連想されるようなサクセス・ストーリーではない。むろん億万長者は登場する。成功指南書が紹介され、著者も、指針を信じて日夜努力する女も顔を出す。が、その努力が実を結ぶことはついにない。一攫千金の夢を見て、マレーシアや中国の田舎からやってきた人びとの出身地、および上海での悪戦苦闘ぶりがつぎつぎに活写される。当初は無関係に思えた彼らがしだいに結びつき、打算と欲望が渦まき、厳しいビジネスの実態が表面化。ここはほんとうに共産国なのか。彼の地、彼の国の事情にうとい素人には驚嘆の連続であり、経済的にはまさに資本主義社会そのものだ。ひるがえって、この驚きの舞台がなければ、たとえば不動産売買をめぐる駆け引きなどは日常茶飯。マレーシア篇にしても、民族色豊かだからこそ読みがいのある物語となっている。それよりむしろ、本書の眼目は人間の絆にある。彼らのほとんどは財産や名声だけでなく、愛情を、心の友を求めている。台湾出身の有名歌手がスターの座から転落したあと、チャットで心の傷をいやし、上海郊外のカフェで入魂の歌を絶唱。華やかで活気に満ちた大都会に住む人びともいちように傷つき、そして孤独なのだ。愛も虚妄かもしれない。悲哀と絶望の色が濃くなる。と、そこへ射しこむかすかな希望の光。これまた定石どおりだが、各人の心の動きや心象風景の描写がすこぶる緻密で、上の舞台効果を超えて強く胸にひびいてくる。力作である。(8月11日)[☆☆☆★★] ジンバブエからアメリカに移住した少女ダーリンの体験を綴った青春小説。実質的に短編集の味わいで、前半はダーリンをはじめ、貧しい村の少年少女たちが繰りひろげる狂騒劇が楽しい。教会での悪魔払いの儀式や、少女の中絶騒ぎなど抱腹絶倒もの。一方、死の床にあるダーリンの父親をワルガキたちが見舞うシーンには、しんみりさせられる。かと思えば、黒人たちによる白人の屋敷の襲撃事件や、子どもたちが政治活動家の惨殺を再現するくだりでは緊張が走り、子どもの無邪気さと残酷さが浮き彫りにされる。後半の話題は、ダーリンがアメリカでうけたカルチャーショックや、二度と帰れなくなった祖国への複雑な思い、さらには、本名を隠し、新しい名前で不法就労に従事する移民同士のふれあい、彼らの塗炭の苦しみなど。いずれも想定内のテーマだが、テンポよく畳みかけるような文体がすこぶる効果的で思わず引きこまれる。両親や友人だけでなく、自国の文化そのものと決別し、移住先ではわが子との断絶もしいられる第一世代の移民たち。もとより完全に絆が切れるわけではなく、彼らの引き裂かれた心を、青春小説のスタイルでみごとにとらえた作品である。(8月7日)[☆☆☆★★] 舞台はイギリスの片田舎。まだ荘園領主が村を治めていた時代、不心得者が領主の館で失火騒ぎを起こし、それきっかけに悲劇がはじまる。深読みかもしれないが、これは現代社会に警鐘を鳴らした寓話小説と解することもできよう。どんなに平和で繁栄した国でも、不都合な真実を隠蔽するうちに混乱が生じ、最悪の場合には社会全体が崩壊してしまう。その過程にはさまざまな負の連鎖がある。真実の隠蔽はもちろん、縄張り意識と差別、大衆への迎合、集団ヒステリー、魔女狩りユートピアの欺瞞、権力者の恣意と優柔不断、権力の空白がもたらす無秩序、正義感に駆られた人間のふるう暴力。当初はのどかな田園風景にふさわしいゆるやかな展開で、しかも上のもろもろの要素が複雑にからまり、なかなか話の方向が見えない。しかしやがて事件はしだいにエスカレート。気づいたときには主人公ともども、地域社会の崩壊を目のあたりにしている。それはいわば複合現象であり、どれかひとつが決定的な要因とはいいがたい。そのぶん焦点がぼやけ、インパクトに欠ける憾みもあるが、こうした負の連鎖こそ、じつはすこぶる現代的な崩壊過程ではないだろうか。
The Lowland

The Lowland

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[☆☆☆★★] 雨が降れば水につかるカルカッタ市内の低地。少年時代にそこで遊んだ兄弟と、その家族の1960年代から現代まで、ほぼ半世紀にわたるファミリー・サーガである。時に回想も混じるが、もっぱらクロニクル風の展開で、即物的といってもいいほど淡々と客観描写がつづく。テーマは家族の絆だ。兄弟や夫婦、親子などの愛と憎しみ、確執と和解など、お涙頂戴式になりがちな場面でも、行間から深い感情がにじみ出てくるようで、えぐりが効いている。ハイライトのひとつは、若くしてアメリカに渡った兄とその妻、ふたりの娘の静かなバトル。それまでぐっと抑えていた感情が堰を切ってほとばしる妻と娘の対決は息をのむばかりだ。直後、ハートウォーミングな孫娘の話をさりげなく持ちだす、といった構成もみごと。そんなファミリー・サーガのいわば定点に位置するのが弟で、彼はカルカッタで過激派の組織に参加、テロ活動をおこなう。インド現代史の潮流がかいま見え、そこにインド独特の家族のしきたりもからんで物語の鍵となる。しかし上記のテーマをはじめ定石どおりで、旧作と較べると物足りない。ているが、旧作と較べるともの足りない。(9月29日)
Unexploded

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TransAtlantic

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[☆☆☆★] アメリカの奴隷制時代から21世紀の現代まで、大西洋をわたった人びとの運命的な絆と、それぞれの悲哀と苦悩、喪失の歴史を断片的に綴った〈私的歴史小説〉。前半は完全に独立した短編からなり、統一したテーマは見えない。結果的に番外篇ながら、北アイルランド紛争の和平交渉に尽力した米上院議員の登場する第三話が秀逸。家族を思いやる議員の心情がストレートに伝わってきて胸を打つ。後半、しだいに運命の糸が結びつき、おわってみれば、たしかにこれは長編小説である。とりわけ、ほぼ百年前に書かれたまま未開封だった曾祖母の手紙の内容を、アイルランドの湖畔の家で孫娘が知ったとき、それまで断片にすぎなかった個々の「悲哀と苦悩、喪失」がひとつにまとまり、彼女だけでなく読者もまた茫然となる。その場面をはじめ、簡潔な描写によって感情が凝縮された静かな心象風景がたとえようもなく美しい。そこに家族の絆や、他人との結びつき、運命の糸が端的に象徴されているところもいい。が一方、これは要するに、それだけの作品ともいえる。常識的な内容に終始している点が物足りない。(8月5日)[☆☆☆★★] ケッサクな恋愛・家庭・学園コメディである。終始一貫、思わずクスっと笑ってしまう愉快なエピソードが連続。文学的な深みは望むべくもないが、こんな小説でそれを望むのは野暮、と割り切るのがおとなの知恵だろう。ドジで不器用だが、うぶで純情な高校生の娘マリーナと、おなじくドジで不器用だが、家族思いで愛情豊かな母親ローラの話が平行して進む。電柱にぶつかったり、ディナーの席で皿をひっくり返したり、といったドタバタは日常茶飯。マリーナはイケメン少年にあこがれるうち、ようやくボーイフレンドがほかにできたものの、その果敢なアタックを受けてドギマギ。夫が家出したあと、娘ともども義理の母親と同居するようになったローラのほうも、不倫相手の医師の妻と顔をつきあわせてアタフタ。そこへなんと、長らく音信不通だった夫が手紙をよこし……と、主なエピソードを拾ってみても他愛もないものばかりだが、なのに「思わずクスっと笑ってしまう」のは、ひとえに作者の話術が巧妙だからである。主筋だけでなく、母と娘の心理状態もパラレルで、一方がパニックにおちいったときは他方もまたしかり、という展開もうまい。(9月6日)[☆☆☆★★★] 終盤、夢なのか現実なのかマジックリアリズムの世界のような事件が発生。やがてその謎を量子力学の立場から多元宇宙の一例として解明しようとする試みがなされる。いささか理に落ちた結末で尻すぼみだが、そこまでの展開は非常に読みごたえがある。アメリカ育ちの日本人の十代の娘ナオが、秋葉原メイド喫茶で英語で日記を書きつづける。その日記が数年後、バンクーバー近くの離れ小島の海岸にプラスチック袋入りで漂着。それを拾った日系人の女性ルースが大いに関心を示し、同時に彼女の人生も綴られるという二重構造だ。太平洋戦争末期に特攻隊員として戦死したナオの大伯父の手紙や日記も挿入され、時には三重ともいえる複雑な叙述スタイルがじつに巧妙。太平洋戦争のほか、9.11テロ事件、イラク戦争、さらには東日本大震災福島原発事故という歴史的大事件を、三つの物語のなかで齟齬なく結びつける力わざにも舌を巻く。アキバの猥雑な風俗と、カナダの静かな自然と人情のコントラストも鮮やかだ。が、なにより胸を打つのはやはりナオの物語だろう。日本に帰国後、父親がなんどか自殺未遂。東京の中学校でナオが受けた想像を絶する、しかし現実にありそうな恐るべきいじめと暴行。その試練を彼女はどう乗りこえていくのか。彼女に感化を与えるのが曾祖母の尼僧ジコーで、このジコーのことばと、道元の『正法眼蔵』からの引用が本書のタイトル、『あるときの物語』へとつながっている。人間にとって時間とは、存在とは、生とは、死とはなにか。そうした問題について、本書はけっして観念論ではなく、個々の具体的な瞬間から考え直すきっかけとなる作品である。ひとことでいえば人間の運命の問題だが、戦争もテロも、異なる正義や価値観の衝突がもたらす運命の悲劇であり、まさしく多元宇宙の所産である。ところが、本書における戦争のとらえかたには〈正義の多元性〉という視点がいささか欠けている。ナオやルースなど中心人物が陰翳豊かに造形されているのにたいし、肝腎の人間観・歴史観のほうはやや一面的で図式的。これでは道元の教えも個人的な悟りの勧めにすぎないのではないか、という疑念さえわいてくる。惜しい。(9月24日)[☆☆☆★] アイルランドの小さな村を舞台とする、実質的にはショートショート集といってもいい輪舞形式の長編。短い生活スケッチふうの物語のなかで、さまざまな人物の独白が連続するうち、第一話に登場した建築業者ボビーの人生が浮かびあがる。テーマは大ざっぱにいえば生と死、そして愛。親子や兄弟など肉親の死がたびたび話題となり、家族愛はもちろん、見かけとは裏腹に、彼らの心中に渦まく激しい憎しみや恨みなども赤裸々に綴られる。この表面と深層心理の落差、および愛憎なかばする心の動きを描くには、なるほど視点が目まぐるしく変化する輪舞形式は最適の方法のひとつかもしれない。「回転する心」とはいい得て妙のタイトルである。ひとは生きていると、なんどかつらく悲しい目にあうが、それが生の意味を実感する機会ともなる。同様に、愛するひとを憎むようになったとき、それはまた愛の証しともいえる。そんな「心の回転」に思いをはせ、胸をえぐられるシーンも数多い。ただし、後半に起きる子供の誘拐事件は蛇足。逆にこれがないと単調になるものの、結果的に、いわば「心が回転しすぎてしまった」のが惜しい。[☆☆☆] 聖書における聖母マリアの記述は非常に少なく、その心情を綴ったものとなると皆無。本書はそんな歴史の空白を埋めようとする聖書の番外篇である。キリストの死後何年もたったあと、死期を悟ったマリアが生前のキリストと処刑前後のできごとを回想。子どもに愛情をそそぎ、その身を案じ、わが子を亡くして悲嘆にくれる母マリア。恐怖におののき、なによりおのが身の安全を考えるという人間的な弱ささえ露呈する。マリアも聖母である前に、ごくふつうの母親、ふつうの人間だったというわけだ。この解釈が妥当かどうかはさておき、キリストの処刑といえば世界史上最大の事件のひとつのはず。ところが本書からは、その衝撃がさっぱり伝わってこない。「聖書の番外篇」といっても、要するに小さなホームドラマと化している。マリアに母親としての苦悩があったことは想像に難くないが、神の子イエスから宗教的感化を受けることはまったくなかったのだろうか。もし受けたとすれば、それは彼女の苦悩にどんな変化を与えたのだろう。トビーンほどの大家なら、そのあたりの葛藤をじっくり描くこともできたろうに、本書のマリア像は繊細なタッチのわりに平板。そもそも中編小説では扱いきれぬテーマだったのではないか。(2012年12月11日)