ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"Klingsor's Last Summer" 雑感(14)

 初読のときは気がつかなかったが、目についた箇所を読み返してみると、たしかに巻頭の短編 "A Child's Heart" と次の中編 "Klein and Wagner" には共通点がある。まず、どちらも主人公は内省的な人物だ。そしてその内省、自己検証はもっぱら、自分の心中にある悪へと向けられている。外側ではない、おのれの内側に悪の存在を認めているのである。
 さらに重要なのは、両方の作品において、相互に関連する根元的な善悪の問題が提出されている点である。
 まず "A Child's Heart" の主人公は、11歳の少年のとき、「『善から悪が生まれる』という苦い真実をおぼろげながら理解・認識する」。それは少年にとって、大人になるための重大な契機だった。次いで(ぼくの要約だが) Klein は言う。「善悪を、正義と不正義を峻別するのは未熟な精神である。峻別された善悪、正義不正義はレッテルに過ぎない。善悪の真実は善悪の彼岸にある」。
 たった2作で断定するのは早計かもしれないが、以上はヘッセの倫理観を代弁したものと言っても差し支えないのではないだろうか。さすがはヘッセ先生、タダモノではありませんでしたな。
 さて、ではそろそろ「ヒンシュクを買いそうな失言」を。夏の安保法案騒動の際、「……に言いたい、お前は人間じゃない。たたっ斬ってやる!」と叫んだという某大学教授をはじめ、あの騒ぎで活躍した人々のおそらく大半は「おのれの内側」ではなく、「外側」に「悪の存在を認めている」。そして「善悪を、正義と不正義を峻別」し、平和を守る立場の自分たちは絶対的に正しく、国民を戦争へと導く者は絶対的に間違っていると信じている。要するに平和は絶対善、戦争は絶対悪というわけだが、ぼくの思うに、そういう単純な色分け、図式的な思考は上の11歳の少年の認識にも劣る、まさしく「未熟な精神」以外の何ものでもない。
 「黙っていられない」、「もういても立ってもいられない」、「許せない」などなど、さまざまな声が〈狂騒劇〉の中から聞こえてくる。それはひとしく怒りの声であり、強い〈正義感〉に発するものだろうと思う。だが、そういう〈怒り〉や〈正義感〉こそ、まさに戦争を引き起こす最大の原因のひとつなのだ。「たたっ斬ってやる!」とは、戦争発生のメカニズムを象徴するような発言なのである。
 自分が正しいと思えば思うほど、相手が間違っていると思えば思うほど、人間は「黙っていられない」、「もういても立ってもいられない」、「許せない」。そしてとどのつまり、「たたっ斬ってやる!」 それはまさしく「善から悪が生まれる」瞬間にほかならない。そのことに気づかない〈狂騒劇〉の立役者たちは、「未熟な精神」の持ち主としか言いようがない。その未熟な彼らは、脳科学者の中野信子氏が言うとおり、人間が「戦争をする生き物」であることを身をもって立証しているのである。
 みたびヘッセの倫理観を要約しよう。「善悪を、正義と不正義を峻別するのは未熟な精神である。峻別された善悪、正義不正義はレッテルに過ぎない。善悪の真実は善悪の彼岸にある」。
 最後に「ヒンシュクを買いそうな失言」をもうひとつ。善悪を峻別してレッテルを貼るだけの「単純な色分け、図式的な思考」、すなわち「未熟な精神」こそ戦争につながる危険思想である。……いやはや、疲れました。
(写真は、宇和島市内から見上げた宇和島城)。