表題作を読みたくて取りかかった本書だが、夏休みのメモを頼りに改めて拾い読みしてみると、意外なことに、文学的に深いテーマが汲みとれるのは巻頭の短編 "A Child's Heart" と、次の中編 "Klein and Wagner"。それにくらべ、お目当ての『クリングソル』は内容が浅い、とまでは言えないにしても、少なくとも例の「失言」の引き金となるような材料は見当たらない。なので(この「なので」という表現はオシャベリのときは気にならないが、こうして文章にしてみると、日本語としてまだしっくりしない気がする)、わりと軽い、とだけは言えるかもしれない。
だが、ぼくはこの作品が好きだ! 中1の時なぜか心に引っかかり、このたび半世紀ぶりに読み返したから、という個人的な事情を度外視しても、ここには非常に魅力的な点がある。とにかく明るいのだ。上の2編がいわばドイツ的な重厚さに満ちた作品であるとすれば、この『クリングソル』は舞台が風光明媚なイタリアの田舎町ということもあって、どのページでも陽光が燦々と輝いている。
それから、記憶ちがいがもう一つあった。主人公が老人ではなかっただけでなく、彼はたしかに「最後の恋」をしているようなのだが、一人の若い娘にご執心というわけでもなく、ほかにも何人か女性が登場。そのうち一人とはバッチリ、接吻(古い表現で失礼!)まで交わしている。そういう交流の楽しさをたとえて言えば、Klingsor がふと目にしたのは、まずソフィア・ローレン、次にクラウディア・カルディナーレ。はたまた、ジーナ・ロロブリジーダ……いや、これは言い過ぎだが、とにかくそんな雰囲気です。(脱線ついでに言うと、ぼくが観たイタリア映画でいちばん美形だと思ったのは、『暗殺の森』のドミニク・サンダさま。フランス女優ですけどね)。
……と、ここまでの拙文を読み返してみると、明るければいい作品なのか、という疑問が湧いてくる。次回はこの「明るさ」の本質に迫ってみたい。
(写真は、愛媛県宇和島市の和霊神社と太鼓橋。夏の和霊大祭では、この川に御神輿が入る)。