ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"The Red and the Black" 雑感(7)

 この連休を利用して郷里の愛媛県宇和島市に帰省。つかのまではあったが、ざっと40年ぶりの田舎の秋を満喫してきた。とりわけ、秋になると、ここはこんな景色に様変わりするのか、という意外な発見が楽しかった。
 読書も同じことで、40年ぶりに "The Red and the Black" を読み返してみると、若い頃には気づかなかったことが多々ある。ただし、それは必ずしも楽しい発見ではなく、むしろ昔の浅読みを嘆く破目になることのほうが多い。今も決してよく分かっているわけではないが、昔はまったく何も分かっていなかった。いやはや。
 が一方、今のように分析的に読むことが絶対にいいというわけでもない。小さな活字で500ページを超える大長編だが、周知のとおり大変ドラマティックな小説であり、小説本来の楽しみ方としては、やっぱり一気呵成に読むに越したことはない。そういう意味では、「若読み」も必要なのかもしれない。
 閑話休題。いくら浅読みしかできなかった中学、それから大学時代でも、さすがに Mme de Renal と Mathilde が対照的な人物であることくらいは薄々感じていた。舞台が田舎町からパリへ変わり、Julien の相手も年上の女から若い娘へと交代。その対比は40年たっても憶えていたのだから、Stendhal の作劇術や人物の描き方はそれだけ見事だったことになる。
 Julien 自身が2人の女をこう評している。'Mathilde was gazing at him with a strange expression. Yes, here is an example of that coquetry of women in this part of the world [in Paris] Mme de Renal described to me, said Julien to himself. .... Her [Mathilde's] disdainful hauteur will know all too well how to take revenge. .... What a difference to the woman I have lost! What charming naturalness there! What simplicity! ....  Great God, what a difference! What have we here instead? A sterile and haughty vanity, all the shades of self-satisfaction, nothing else whatever.' (pp.315-316)
 ここで注目すべきなのは Great God 以下だと思う。これは1つのパラグラフなのだが、この前後のパラグラフでは、3人称の客観描写の中にJulien の言葉が単数1人称で混じるというスタイルである。ところが、このパラグラフだけ we が出てくるのだ。この we とはいったい何者だろうか。
 じつはこれ以前にも何度か we が登場するくだりがあり、そこでは明らかに Stendhal が読者を巻き込もうとしている。とすれば、上の引用箇所でも Stendhal は Julien の立場に即しながら、読者をいわば「対比の構造」に参加させようとしているのではないか、というのがぼくの解釈である。それもまた、彼の「作劇術や人物の描き方」の特徴の一つではないだろうか。
(写真は伊達家の菩提寺、等覚寺の本堂前の桜)。