「教育の普及は、浮薄の普及也」とは明治の文豪、斎藤緑雨の有名な言葉で、のちに福田恆存も論文のタイトルに援用したことで知られる。緑雨はその言葉に続けて、「文明の齎す所は、いろは短歌一箇に過ぎず」と書いている。ひょっとしたら、「文明の発達は浮薄の普及」と言いたかったのかもしれない。
とそんなことを思ったのは、"The Red and the Black" の中で Mathilde がこう述べているからだ。'Alas! sighed Mathilde to herself, it was at Henri III's Court that men were to be found as great in their character as they were in their birth! .... In that era of vigour and prowess, Frenchman weren't men of straw. .... Their life was not all wrapped round like an Egyptian mummy, in an envelope common to all, and always uniform. .... A man's existence was a succession of risks. Now civilization has banished chance, there is no more of the unexpected. ... Whatever idiocy fear drives us to ― it's excused. Degenerate and tedious age!' (p.343)
さらには、Julien の行動を目のあたりにして感動した Mathilde について、'The idea carried her off to the finest days of the age of Charles IX and Henri III. (p.363) という記述もある。ネットで調べたところ、シャルル9世の在位は1561年から1574年、アンリ3世は1574年から1589年ということだった。
Mathilde がなぜ16世紀後半を自分の時代の比較対象に選んだのか、ざっとした検索では、その根拠となりそうな史実は発見できなかった。しかし彼女が言いたいことは一目瞭然だろう。昔の男は偉かった、つわ者だった。しかるに今はワラ人形のような腑ぬけぞろい。みんな似たり寄ったりで、自分を取り巻く貴族たちといえば、「地位と財産はあるが無能で凡庸、退屈この上ない有象無象のやから」にすぎない。ああ、私の時代はなんと 'Degenerate and tedious age' であることか、いうわけである。
その嘆きに文明批判が読み取れることは明らかだろう。してみると、Stendhal は Mathilde の言葉を借りて「文明の発達は浮薄の普及」と言いたかったのだろうか、とぼくは想像をたくましくしてしまった。
もちろん、この「文明批判」は Mathilde が Julien に恋をした理由の説明でもある。アホな男たちの中にあって、彼は唯一、彼女のお眼鏡にかなった「非凡な知性」の持ち主、「有能かつ高貴で偉大な男」、「男の中の男」だったからだ。
また Stendhal 自身、Mathilde が貴族の娘としての立場を踏み外し、恋の衝動に駆られたことについて、こんな注釈をつけている。'This character is completely imaginary, and, what's more, is imagined quite apart from those social customs that will assure the civilization of the nineteenth century so distinguished a place amongst the ages.' (p.373)
しかしながら、この注釈は前後を読めばすぐにわかるとおり、明らかに、本書が公衆良俗に反するものではないという趣旨で書かれている。まあ、当時の作家はそう弁明せざるをえない立場だったんでしょう。だからぼくはますます想像の羽根を伸ばし、Stendhal はやはり Mathilde の恋にかこつけて、少なくとも間接的に、偉大な人物が存在しない凡庸な時代を生んだ文明そのものを批判しているのでは、と思ってしまった。
以上がぼくの気づいた「Mathilde のほうから見た社会小説的側面」だが、これはやっぱり深読みでしょうかね。まあ、深読みにしても、上の Mathilde の嘆きはじつにおもしろい! もし Mathilde が、いや Stendhal が200年後の日本を見たとしたら、'Unbelievably degenerate and tedious age!' なんて叫ぶのじゃないかと、これは本当に想像しています。
(写真は伊達家の菩提寺、等覚寺の山門夕景)。