ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"Death in Venice" 雑感(3)

 表題作はむろん発表当時 (1911) から名作の誉れが高かったものと思う。が、一般には、ルキノ・ヴィスコンティの名画『ベニスに死す』 (1971) が公開されてから世界的に有名になったのではないだろうか。その中で周知のとおり、マーラー交響曲第5番第4楽章アダージェットが効果的に使われた点も大いに評判を取り、のちのマーラー・ブームと相まって、べつに文学ファンでなくても、この短編のタイトルだけは聞いたことがある、という人がたくさん増えてきたのでは、とぼくは推測している。
 が、ぼく自身は長らく食指が動かなかった。映画の公開以前、高校生のときに前回引用したような邦訳で読みはじめたものの、主人公が「作家としての名声を博するに至ったプロセス」に出くわしたところで挫折。それがトラウマになってしまったのだ。その後、映画を見てはじめて、へえ、そんな話だったのかとわかったが、原作のほうには相変わらず興味がわかなかった。
 ヴィスコンティの映画は、なんとなく憶えていた。いま資料を見ると、主人公は大作曲家となっているが、原作のほうは高名な作家である。作曲家のほうが絵になるということだろうか。それとも、Aschenbach がヴェニスで、正確にはヴェニス沖のリド島の海岸で見かけた美少年をひそかに Adgio と名づけている (p.30) ので (本名も音が近い Tadzio)、ひょっとしたらヴィスコンティは本編を読んだとき、まず上の Adagietto が頭にひらめき、それを映画で使うためには主人公を作曲家に変えたほうがいい、と判断したのかもしれない。ネットで検索すれば変更理由はすぐに調べがつくはずだがパス。いずれにしろ、名画であることは間違いないからだ。
 名画たるゆえんはいくつかあると思う。が、ひとつには、原作の雰囲気を、いや本質でさえもみごとに映像化した作品だからである。英訳で本編を読みはじめ、上の難解な部分をどうにか切り抜けたところでホッとひと息。Aschenbach がヴェニスへ旅立つ話になる。やがて彼の地に足を踏みいれ、少年を目にして 'Aschenbach noticed with astonishment the lad's perfect beauty.' (p.25) というわけだが、この前後から、ウロ憶えだった映画のシーンが断片的によみがえってきた。最後まで読んでみると、映画をもう一回見た気分でもある。それだけでも、「原作の雰囲気を……」ということになりはしないだろうか。
 と思ったが、ひとつ気になる点がある。作曲家が主人公になったせいか、ぼくが高校時代に投げ出してしまった芸術論のほうは、どうやら映画ではカットされているようなのだ。事実かどうかは実際に見直さないとわからないが、映像ではまったく表現しにくい、絵にならない部分である。無視されても当然だろう。
 すると、原作においても、そこはさほど重要な箇所ではないのかもしれないが、ほんとうにそうなのか。そこを素通りしたと思われる映画が、原作の「本質でさえもみごとに映画化した作品」であるならば、それは小説の中でしょせん本質的な部分ではない、と言えるのだろうか。
(写真は、高知県四万十町六反地にある幸霊祠跡。上意討ちにあった宇和島藩家老、山家清兵衛の奥方が追っ手を逃れ、この地で息を引き取ったのち、そこに領民が祠を建てたという。その跡の隣りに住む地元の人が写真の石碑を建立)。