ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"Childhood, Boyhood, Youth" 雑感(3)

 Tolstoy にかんする研究書、学術論文は当然あまたあるはずだが、ぼくの手元にあるのは、Dostoevsky と対比しながら論じた George Steiner の "Tolstoy or Dostoevsky" 一冊のみ。Dostoevsky ともども、二人の巨人について知るべき、考えるべき問題が網羅されているものと思う。
 不朽の名著だが、ぼくは例によって不勉強で、若い頃、必要があって拾い読みしたことがあるだけだ。まことにお恥ずかしい次第。それゆえ今回、Steiner がこの自伝3部作についてどんなことを書いているのか、ふと気になり(唯我独尊のぼくは、他人のレビューは極力読まないようにしているが、Steiner は神様なので別)、Index を頼りに該当箇所を調べてみた。数えるほどしかなかったが、思わず、え、と驚いてしまったくだりがあった。
 驚いたというより、さすがは Steiner と言うべきだろう。"Childhood" のハイライトである Tolstoy の母親の死について、前回ぼくが引用した一節の一つ前の章から、やはり彼が自分のエゴイズムに敏感だったことを物語る場面が紹介されていたのだ。
 母親の死の直前、Tolstoy は最後の見舞いに訪れる。すると、'Beside the bed stood a young, a very fair, remarkably beautiful woman in a white morning gown ....' (p.101) こんな記述があるということは、彼は当然、この女性に関心を向けていたことになる。その直後のくだりがこうだ。 'I was overwhelmed with grief at that moment, but involuntarily took in all the details.'  この 'all the details の中に女性の美しい姿がふくまれる、と Steiner は述べているのである ("Tolstoy or Dostoevsky" Peregrine Books, p.75)。
 同書は1959年刊。今から60年近く前にもうすでに、ぼくがここで書いている趣旨のことを Steiner は指摘していたのだ。同書を読んだことのある人なら、なんだお前は、二番煎じの話ばかり書きやがって、と嗤っていることでしょうな。
 ともあれ、Steiner はこう続けている。'When his mother dies, the boy experiences "a kind of enjoyment", at knowing himself to be unhappy.' これは明らかに、前回ぼくが紹介した一節の要約だ。調べてみると、'a kind of enjoyment' は Penguin Classics の旧訳版に出てくる表現で、それが新訳では 'a kind of pleasure' になっていた。
 ほかにも、Steiner は Homer と比較しながら "Youth" ついて論じていることを発見。こうなるともう、とうていぼくの及ぶところではない。ガックリきたが、ひょっとしたら Steiner がどこにも書いていないかもしれないことを述べておこう。
 といっても、これまたごく常識的な二番煎じの話であり、だからこそ Steiner も言及していない可能性がある。つまり、なぜ Tolstoy は少年の頃から、かくも「自分のエゴイズムに敏感だった」のか。それはひとえにキリスト教文化のたまものだ、ということである。
 なにしろ、あの十戒である。有名な話だが、妻帯者が妻以外の女性を目にして、心の中で「いい女だな」と思っただけで姦淫になるのだから、最近話題になっている某有名タレントの一件などと較べると、恐るべき文化の差としか言いようがない。時代の差ということもあるのだろうけれど、本質的には、彼らはぼくたちとは違う文化を生きている。
 T. S. Eliot は "Notes Towards The Definition of Culture" の中でこう述べている。'Yet there is an aspect in which we can see a religion as the whole way of life, from birth to the grave, from morning to night and even in sleep, and that way of life is also its culture. .... what is part of our culture is also a part of our lived religion.' (Faber and Faber, p.31) '.... culture is not merely the sum of several activities, but a way of life.' (p.41)
 この文化の定義に従えば、彼らは人生の生き方そのものがぼくたちとは異なっている。人生のあらゆる局面において、それこそ 'the whole way of life, from birth to the grave, from morning to night and even in sleep' が違う。そうしたキリスト教文化の中で生まれた天才、巨人だったからこそ、Tolstoy は幼年時代から「自分のエゴイズムに敏感だった」のである。いやはや、まったくもって二番煎じの話でスミマセン。
(写真は、宇和島城上り立ち門と郷土の偉人、児島惟謙の銅像。児島は、明治時代に起きたロシア皇太子暗殺未遂事件、大津事件を裁いた大審院長)