ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"Childhood, Boyhood, Youth" 雑感(5)

 "Youth" の最後に '24 September 1856 Yasnaya Polyana' (p.393) とあったので、奥付を見ると、ロシア語版は1852年から同57年刊とのこと。そこでネットで Tolstoy の生年を調べたところ、同28年。つまり本書は、彼が24歳から28歳にかけて書いた作品ということになる。
 世界文学ファンなら先刻承知のことと思うが、ぼくはどの本も白紙の状態で読むのが好きなので初耳。そんなに若い頃の作品だったと知って驚いた。「ウソか本当か知らないが、よくまあ、これほど細かい点までありありと書けるもんだ、と感心させられる」とは前回の雑感だが、とても青年作家が書いたものとは思えない。
 月並みな感想だが、さすがは天才だなと思いながら、同じく Wiki をながめているうちに、2歳のとき母親を亡くし、9歳のとき父親が他界という記述を発見。やっぱりね、と思った。 "Childhood" の主人公の少年は10歳で登場。そのとき母親はまだ生きている。"Youth" が始まったとき少年は16歳で、父親は最後まで存命。つまり、本書はやはり「自伝小説」であって、自伝そのものではない。
 それゆえ、"Childhood" のハイライトである母親の死も、そこで目にした光景もフィクションだったことになる。では、あの場面で描かれていた 'egotistical feeling' もフィクションだったのだろうか。
 ぼくはそうは思わない。雑感(2)で引用した一節や、George Steiner が着目した箇所を改めて読みかえしても、そこから読み取れる 'egotistical feeling' はあまりにもリアルだ。いわば真実以上に真実味のある書き方なのである。
 これはぼくの単なる推測だが、母親の死をはじめ、本書に出てくるエピソードはどれも、実際にあった出来事と大なり小なり似たようなものではないだろうか。"Youth" において青年 Tolstoy が大学の期末試験に失敗する一件など、Wiki の記述とぴたり符合している。
 ただ、実際の事件をそっくりそのまま再現するのではなく、自分の 'spiritual development' (p.393) のプロセスに応じてさまざまに味つけしたり、組み合わせたり、いろいろな工夫をほどこした結果、「真実以上に真実味のある」自伝小説が出来上がっている。そんな気がしてならないのだ。
 たとえば "Youth" では、Tolstoy は教会で罪の告白をした直後にこう書いている。'I was utterly happy. Tears of happiness welled in my eyes, and I kissed a fold of the monk's thin woolen cassock and lifted my head. His face was utterly serene. Sensing my pleasure in that feeling of tenderness and afraid of somehow dispelling it, I quickly parted with the confessor and, staring ahead to avoid any distraction, came back outside the walls and took my place in the swaying droshky. But the jolting of the carriage and the variety of things flashing before my eyes quickly dispelled the feeling anyway, and I was already imagining that the confessor was most likely thinking that he had never in his life met such a beautiful young soul and never would again, since there were no others like it. I was convinced of that, and the conviction produced in me the sort of gaiety that has to be shared.' (p.233)
 このような自己満足は多かれ少なかれ、誰しも経験することだろう。そして多くの場合、忘れる。思い出してもあまり気にしない。恥ずべきことだと思ったとたん、忘れるように努める。ところが、Tolstoy はそれをひたすらリアルに描き出している。「俺はあの時、あんなふうに egotistical だった。あの時の気持ちは純粋ではなかった」と正直に書いている。自分のエゴイズムに敏感だからこそなせる業である。つまり、'egotistical feeling' そのものはフィクションではないのである。
(写真は宇和島市穂積橋のたもとにある、「老生は銅像にて仰がるるより万人の渡らるる橋となりたし」との穂積陳重の言葉を刻した石碑)。