ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

A. S. Byatt の“Possession”(3)

 ぼくはカッコつけて言えば原典主義者。「作品は作品をして語らしめよ」という考え方である。よほど興味や必要がないかぎり、ある作家の経歴、作品歴、作品の時代背景などについて調べることはない。それどころか、序文や〈あとがき〉もまず読まない。書評のたぐいも極力、とりわけ作品に取りかかる前は目にしないようにしている。
 カッコつけずに本音を言うと、作品の本文以外のことにふれるのはどうも面倒くさい。おかげで浅い読み方しかできなかったり、勘違いしたりは日常茶飯。自分の書いたレビューをあとで読み返すと、冷や汗ものである。ぜんぶ書き直したいものさえあるほどだ。あのときはあの程度にしか読めなかった、それだけ力不足だったとあきらめるしかない。
 けれども古典の場合、そういう恣意的な取り組み方が許される余地は、現代の作品よりもはるかに少ない、と認識している。早い話が、シェイクスピアの何かの作品を読んでいて難解な一節に出くわしたときは、やはり注釈に頼らざるをえない。まして作品全体の解釈となると、今までの学問的成果をまったく無視して何かを論じることなど、とうてい不可能だろう。
 と、そんな立場でこの "Possession" を読みはじめたのだが、「Ash と LaMotte は文学的にどういう意味で偉大な詩人だったんだろう」というのが第一の疑問。これについては前回述べた。次の疑問点に移ろう。「彼らが偉大であったことは認めるとして、二人が関係していたことが、それぞれの作品解釈にどんな光を投げかけるのか。その academic scoop は現代人にとってどんな影響を与えるのか」。
 もちろん本書の現代の学者たち、とりわけ上の男女関係を発見した Roland Michael と Maud Bailey は早い段階から、その「関係がそれぞれの詩の解釈を変更させるものと考えている」。しかしぼくは、この設定そのものに多少無理があると思った。まず、「作品は作品をして語らしめよ」という原典主義の立場からすると、そんなことはどうでもいい、と言いたくなるし、そんなもので解釈が変わるような作品は大したことがない、という気がしたからだ。事実、前回述べたように、二人の詩はぼくにはどうもピンと来なかった。でもまあ、これは多分にぼくの好みと力不足のせいでしょうな。
 一方、古典を読む場合の心得に従うと、新資料の発見は、いわば注釈の追加変更のようなものである。これは大いに尊重しなければならない。けれども、その新発見の結果、現代の学者が目からウロコが落ちるような思いで自分の人生を見直すことがあるのだろうか。もしあるとすれば、それは学者のみならず、一般の現代人にとって本当にすばらしい発見と言えるはずだが、たかだか恋愛関係でそんな発見があるのかな、と思ってしまったのである。
 この点、本書の学者たちは終盤にいたるも「イマイチ説明不足」と言わざるをえない。
(写真は、宇和島市八幡鉄橋の踏切から眺めた上り・下りの市内風景)。