ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Kamel Daoud の “The Meursault Investigation” (2)

 Michiko Kakutani のレビューは読んでいない。なにしろあのNYタイムズ紙の書評家だ。読めば必ず勉強になると思うのだが、何であれ取りかかる前は彼女にかぎらず、誰の批評もいっさい目にしないことにしている。(じつは読後も皆無に近い)。及ばずながら、まず自分の力だけでトライしたいからだ。(唯我独尊だからだ)。
 それゆえ初歩的な勘違いは日常茶飯。本書の場合も的外れな読み方をしている恐れが多々ある。それはともかく、雑感にしるしたとおり、ぼくはこう思った。あの『異邦人』を「下地にして新たな物語を書くとは、どんな角度から、どんな問題を提起しているのだろう。とりわけ、原作で描かれている不条理の問題はどうなっているのか。とにかく何らかの新機軸がなければ続編の意味はない」。
 そういう目で本書をふりかえると、きのうは長々と駄文を綴ってしまったが、ひとことで言えば「かなり成功していると思う」。
 その理由はもう書いた。もちろん本書の美点である。ただし気になる点もあるので、今日はその序論として、まず原作のほうに焦点を当ててみたい。
 最近の若者たちが(ジジくさい言い方ですみません)カミュを読むのかどうかは知らない。が、ぼくが中高生のころ、文学少年少女のあいだでは『異邦人』や『ペスト』は必読書だった。カミュを読まずんば文学ファンにあらず、というほどだったかもしれない。
 ぼくも熱読したものだ。といっても実際は2、3回くらいかな。それでも熱に浮かされたように読んだ気がする。邦訳はもう手元にないが、「きょう、ママンが死んだ」という『異邦人』の、あの有名な冒頭の一文はいまでも憶えている。
 ところが、それからほぼ半世紀たち、この "The Meursault Investigation" を読むまで、カミュのことなどすっかり忘れていた。英訳で世界文学を楽しむようになって以来、Penguin 版と Vintage 版で主な作品は買い集めているが、いまだに書棚の飾りのままである。
 それゆえ、これまた「初歩的な勘違い」だろうなと思いつつ、"The Meursault Investigation" の中に出てきた "The Stranger" の(たぶん正確な)要約をもとに、後者について感想を述べておこう。若いころは考えもしなかったのだが、'Maman died today.' (p.3 Vintage) というあの文、'God is dead today.' と読み替えることができるのではないか。
 むろん、こじつけに過ぎない。Vintage 版をパラパラめくってみると、'For the first time in a long time I thougt about Maman. .... close to death, Maman must have felt free then and ready to live it all again.' (p.122) などとあるからだ。がしかし、'I said that I didn't believe in God.' (p.116) といった記述も目についた。少なくとも God と Maman の関係について、どなたかフランス文学の先生が研究しているかもしれませんな。
 カミュの言う不条理が成り立つには、'God is dead today.' という前提が必要である。もちろんこれ、ニーチェの有名な言葉のもじりだが、この言葉が "The Stranger" の冒頭にあったとしても何の違和感もない、と読み返しもせずに思う。
 さて、本歌取りの "The Meursault Investigation" の場合はどうだろうか。
(写真は、宇和島市保手橋から眺めた海側の風景。ぼくは小学生のとき、このあたりで生まれて初めて魚をとった)。