男女の仲を引き裂く障害が多ければ多いほど、大きければ大きいほど、それだけメロドラマはおもしろくなる。前回の要約だが、当たり前の話ですな。
では本書の場合、どんな障害があるのだろうか。「作者と同名の女流作家エレナがダブル不倫。相手の男はエレナの親友リーラの元彼といったぐあいで、新旧の恋愛、不倫、三角関係が入り乱れ、まさにナポリは恋の街である」。こんな「恋愛相関図」に障害なんてあるのかな、というのが率直な感想だ。
恋愛の障害にはいろいろあるが、西洋の場合、昔は神の掟が非常に強力なものだったことは間違いない。「汝、姦淫するなかれ」というやつである。
前にもどこかでふれた有名な話だが、あれは心の中の姦淫も禁じた厳しい戒律である。既婚者が配偶者以外の男性女性を目にして、「あ、いい女だな」とか、「あら、イケメンだわ」と思うだけで姦淫なのだから、ほとんど誰も守れるわけがない。
逆に言えば、この掟によって禁じられていることが日常茶飯の現実なので、それを戒めているわけだ。「汝殺すなかれ」も同様だろう。(いけない、脱線しそうだ)。
こうした厳格な戒律があり、それに反するどうしようもない現実があるからこそ、世界文学の名作も生まれたのである。一連の話で取り上げてきた "Anna Karerina"、"The Red and the Black"、"Madame Bovary" など、みんな理想と現実の激しいせめぎ合いの所産なのだ。ふと思い出したが、Graham Greene の "The End of the Affair" だってそうですな。
ところが、いつのころからか、そのタガがゆるんでしまった。そして昔ながらの現実だけが残った。だから本書のように、そういう現実を描いただけの小説もどんどん書かれるようになった。
そこにはむろん偉大な人物は登場しない。人間を偉大にするはずの障害が消えてしまったからだ。「凡人の障害なき自由恋愛は時代の風潮、現代文化そのものだが、劇的であるはずの事件が劇的感動を生まないのは、それだけ人間が矮小化した証左かもしれない」。
とまあ、そんなことを考えながら読んだせいか、本書は最初から退屈で仕方がなかった。比較的よかったのは、テーマが恋愛から友情、家族愛へと移行する第2部である。本書が昨年、ニューヨーク・タイムズ紙をはじめ、各メディアから高い評価を受けたのもきっと、終わりよければすべてよし、ということなのだろう。
(写真は、宇和島市辰野川ぞいにある寺町界隈の終点)