ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"The Schooldays of Jesus" 雑感

 まず "Hot Milk" の続きから。ほんとうはもう少し主筋に沿って感想を述べるべきなのだが、雑感でも多少ふれたのでカット。あれ以上書くとネタバレになってしまう。じつは官能的な場面もあって、なかなか楽しい……おっと、いかん。
 その手の話は目を惹きやすいポイントである。が、ぼくの見るところ、本書の核心をなす問題ではない。核心と関係はあるが無視してもいい。「自分とは、自分の人生とは、愛とはいったい何なのだろう」。やはりこの点に絞るべきだと思う。
 閑話休題。ぼくにしては珍しく、同時に複数の本を読んでいる。まず本日の表題作、J. M. Coetzee の "The Schooldays of Jesus"。これが手元に届く前に読みはじめたのが David Szalay の "All That Man Is"。どちらもご存じ今年のブッカー賞候補作である。あと、寝床で山田詠美の『放課後の音符』。
 "All That Man Is" はかなり分厚い。いったん離れると、わけが分からなくなる恐れがある。お得意のカタツムリ君ペースでいいから読み続けよう、と思ったのが〈二足ワラジ〉の理由だが、さいわい同書は今のところ、なかなかおもしろい。長編というより連作短編集みたいだ。
 第1話では、イギリスの2人の少年がヨーロッパを旅している。ベルリンとプラハが舞台。Ferdinand は活発で外交的だが、Simon は内向的で、もの思いにふけりがち。といっても、考えるのはもっぱら、夢に出てきた好きな女の子のこと。なにせ17才だものな。
 17才といえば、『放課後の音符』に出てくる女の子たちと同い年だ。こちらのほうが直接的に人物の心理を書きこんでいる。「私は、春から初夏にかけてのこの時期が大好き。だって、色々なことを待ち望んでもいいような気がするし、ただ、静かに座り込んでいて、時が流れて行くのを感じているだけでもいいような気もするのだ。」
 プラハの民宿で Simon は女主人に誘惑されるが拒否。どうやら Ferdinand のほうが応じたようだ。ウィーン行きの列車に乗り込んだ Simon は車窓から外をながめる。'Simon, awake, stands in the corridor and watches the landmarks of the city dwindle. There is a strange sense of loss, a sense of loss without an obvious object. He takes his seat. He looks at his friend, sleeping opposite him, and for the first time he feels a sort of envy. That he ... With her ... If Ferdinand was willing to ... her ... Her dressing gown, there on the kitchen floor. The Ambassadors makes him sleepy. He puts it down. He looks out the window, and the suburbs evaporate in front of his eyes.' (pp.43-44)
 この一種名状しがたい喪失感。これは『放課後の音符』のほうにもあったような気がする。青春、ということでしょうか。
 あれ、"The Schooldays of Jesus" の話はどうなったの? 2013年の前作 "The Childhood of Jesus" の続きのようですな。同書は例によって中身をすっかり失念していたが、昔のレビューやこの続編を読んでいるうちに思い出した。あちらはたしか、ブッカー賞の有資格候補作という下馬評を信じて読んだら当て外れ。ロングリストにも選ばれなかった。
 ところが "Schooldays" のほうは、英米とも8月刊行というのに、7月発表のロングリストに堂々と載っている。いったいどうなってるねん?という不満の声が、あちらのファンのあいだからたくさん上がったものだ。
 これからもう少し読もうと思っているが、今のところ、前作よりはおもしろい。が、前と同じような不満を覚える点が多々あり、さて、それがどう解消されるかお手並み拝見、といったところ。以下、"Childhood" のレビューを再録しておこう。

The Childhood of Jesus

The Childhood of Jesus

[☆☆☆★★] 哲学とは「人を揺さぶり、人の人生を変えるようなもの」であるのが望ましい、と主人公の中年男シモンは言う。ところが、ここで頻繁に出てくる哲学的議論から深い感動を覚えることはまずない。それが本書の最大の難点である。とはいえ、SFにおける未来社会のような街で繰りひろげられる物語はかなりおもしろい。シモンと、彼が街に連れてきた少年ダビド、その母親であるとシモンが決めつけ、やがて自分もその気になる女イネス。どれも本名ではなく、それぞれ赤の他人だが、3人は紆余曲折を経て奇妙な家族を形成する。ほかにも、過去を捨てた人間たちが集まる新都市ゆえに、システムとしては能率的だが、無機的で希薄な関係しか結べない社会にあって、偶然の出会いから人的交流がはじまる。明らかに現代の世相を反映した寓話と言えよう。シモンとダビドの問答を通じて、社会体制の中では異端者だが、真実を洞察して人びとに訴え、それゆえに迫害を受けたイエスの立場が思い出される。タイトルどおり一種の聖書物語らしいくだりである。が、その問答をはじめ、本書における哲学論は、人生の目的をテーマにしたものでさえ抽象的で心に響いてこない。倫理や道徳にかかわる問題がいっさい無視されているからだ。ダビドもおよそイエスらしくない駄々っ子である。物語をひねりすぎたのではないだろうか。英語は標準的でとても読みやすい。
(写真は宇和島市泰平寺前、神田(じんでん)川にかかる泰平橋)